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「心の悩み相談」の窓口ページ

  [心の悩み相談]~このページから申し込めます~
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無料WEB“メール・カウンセリング”(2001.02.01.開始)~2008.07.28.リニューアル~

“いのちの電話”があるように「いのちの電子メール」というものがあってもよいのではという素朴な発想から、この「いのちの電子メール」が生まれました。

【厳禁】 この「メール相談」では、商用的な相談をはじめ、個人や団体を誹謗・中傷するご相談、仲介相談には応じません。

【要綱】 この[メール相談]は無料ですが、応答期間は約1ヶ月間とし、その間4、5回の応答(交信)に留める事を原則とします。その予定期間を超える場合は、その折りに改めてご相談に応じます。勿論、メール相談内容はコンフィデンシャルを厳守致します。
 (1)件名には[メール相談]と書いて下さい。
 (2)お名前(ハンドルネームでも可。
 (3)性別・年齢・職業・家族構成。
 (4)あなたご自身のメールアドレス。
 (5)ご相談内容(分かり易く書く事)。
以上の5項目は必須項目です。いずれも解り易く書いてから送信してください。
☆必須5項目を省略したり、不明瞭なご相談内容の場合、お断りする事があります。

メール相談の宛先:「メール相談」窓口(担当責任者)
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聖地巡礼の記


聖地巡礼の記

1「神が共にいます(アミエル)」
2「夢を載せて飛翔」
3「地獄を二度見た」
4「三つのエマオ探訪」
5「あの方は復活なさって、ここにはおられない」
ー聖墳墓教会を訪問ー
6「イスラエルを南に北に」ー黄金ドーム・ベツレヘム・
カイザリア・ナザレ・ガリラヤ湖へ ー
7「銀貨を断って シケルを出したシケた話」
8「マサダ」の驚異!
~ユダヤ人魂(矜持:きょうじ)の原点~
9「聖地巡礼のうらばなし」~太田先生は普通じゃない~


1「神が共にいます(アミエル)
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについていた人たちの初穂となられました。」(Ⅰコリント15・20)

 主のご復活を心から賛美します。  今年はいつもの年より早いご復活日を祝いましたが、それに合わせるように、大自然も例年より一週間から一〇日程も早く、花の季節を迎え、お祝いすることができました。この恵みを皆さんと共に、心から感謝いたします。

 さて、既にご存知のように、この「MOL広報」の編集発行の労を執っていて下さった佐々木理事が体調を崩され、その労を続けるのが困難になりましたので、急遽私が代わって、後を受け継ぐことになりました。佐々木理事のご労苦に対して、皆さんと共に心からその“ご愛労ありがとう!”と申し上げ、感謝したいと思います。そして今後は、佐々木理事の体調が快復するようにお祈りしたいと思います。

 ところて、既に皆様からお祈り戴いてまいりました私の聖地巡礼の旅は数々の恵みを体験して無事、四月九日早朝に帰国・帰園することが出来ました。そのお恵みの一端を記して、旅路の平安とご助祷下さった皆様に対し、心から感謝し、厚く御礼申し上げます。

ーはじめにー

 この度の聖地巡礼の話は二、三年前からあった。今回、不自由な私を介助しながら、案内役も兼ねて同行して下さった小林史明司祭が、菊池黎明教会の管理司祭として勤務されていた二年程の中で、“そうなったらいいなぁー”という話はしていましたが、わたしがパソコンに金をかけて旅費を捻出する余裕がなかったのと、足の傷が治ったり出来たりと、健康的にも不調が重なったりして、挫折を繰り返すのみで中々実現の見通しをたてることが出来なかった。

 しかし、昨年春、教区の人事異動で、小林司祭が大分聖公会勤務になった頃から、聖地巡礼の旅行話が真実味を帯びてきた。何故なら来年(今年)の復活祭は三月三〇日(日)だから、復活祭を終わってから出発すると、丁度気候的にも花の季節になるのと、小林司祭の勤務日程にも一〇日間位の休暇を取る余裕もあることが予測でき、この時期を逃しては小林司祭との二人旅を実現することは困難になることが分かったからです。

 それに私の体調も不自由ながらも順調だったからです。そして、小林司祭が出した今年の年賀状に、わたしと聖地旅行をすることが付け加えられていた。こうして公表されることで、わたしの心積もりもにわかに実行することを余儀なくされ準備することになった訳です。

 しかし、昨年の七月頃に出来た左足の傷がなかなか快復せず年を越して、半ば諦めかけていた傷がぐんぐん小さくなって正月上旬には完治した。喜んだのも束の間、また同じところが再び炎症をおこし傷になってしまった。でも、この度は意外と早く治ったので、此処まで来たら、例え傷が治らなくても実行する以外になかった。そして、三月に入って、パスポートの取得をはじめ、旅行の準備が本格的になった。

 この度の聖地巡礼の旅はわたしなりの目的というか課題があった。勿論、聖地巡礼の旅の大目的はヴィア・ドロローサを歩くことをはじめ、イエス様の足跡のポイントを訪ねることですが、その中でも殊に、①足に悪い事を承知の上で城壁の上を歩いて見たいこと。②エマオで聖餐式をすること。そして、③緑の牧場で羊が青草をはんでいる風景を写真に収めることでした。更に、安価な旅行計画を建てることでした。

 最後の安価な旅行計画を建てることに就いては、同伴して下さる小林司祭の旅行経験を生かして大韓航空を利用することになった。そして、現地で日本人向けの(対象の)聖地巡礼ツアーも行っている旅行会社〈アミエル (Amiel)〉のツアーに参加する事でした。

 丁度、わたしたちが予定していた休暇日程内にそのツアーの日程が重なった。しかし、間近になってから航空機の日程が二転三転し、やきもきしましたが最終的には、最初の前半三日間は自由行動を採ることができ、後半の四日間はアミエルの日程に従って行動すればよいことになった。従って、前半はアミエルの日程に入っていないところを選んで行動する事になった。

 ユダヤ人女性の日本語ガイド・リマさんに聞いて知ったことですが、この〈アミエル〉というのはこの旅行会社の社長の名前でもありましたが、その語源の意味は〈神様が共にいます〉という意味であり、聖書の中のマタイによる福音書第一章二三節にあります〈インマヌエル=神は我々と共におられる〉と同じ意味だということでした。

 この度の聖地巡礼の旅は不自由なわたしを同伴しての旅で、小林司祭に御迷惑をお掛けすることは火を見るより明らかなこと、難儀を伴うことを誰しもが予測できる旅でした。不自由で弱い足に傷を作り発熱して歩けなくなるのではと、本人は素より見送って下さる教会員やMOL会員の方々の一番の心配事でした。

 従って、帰園して最初に訊ねられた言葉は異口同音に〈足の方は大丈夫でしたか?〉と言うことでした。〈はい、大丈夫、傷も出来ませんでした。〉と応えると、誰もにわかに信じられない様子でした。中には〈ホントに?〉と念を押すように聞き直す方もいました。本当に、本人のわたし自身が驚くほど不思議な結果でした。あんなに急坂なキデロンの谷越えや足下の悪い城壁巡りなど、これ以上の無理はしたくても出来ないほど歩いたのに、石に躓いて膝小僧を少し擦り剥いた程度で止まったのは〈奇跡だ!〉と言えば言えないことはなかった。わたしはそう信じたい。 それはこの度の旅路を案じて皆さんが祈って下さった祈りに応えて〈神様が共にいて〉み守っていて下さったのだと信じています。正に〈アミエル=神が共にいます〉ツアーでした。主に感謝!


2「夢を載せて飛翔」
 三月三〇日(復活日)出発前日

 今年の復活祭は3月30日と早かったが、それに大自然も併せるように、熊本地方では例年より一〇日も早く桜が満開となり、共に主のご復活を賛美した。

 今年はそのご復活の恵みに加えて、御復活の主がこの地上を歩かれたイスラエルへ、バイブルランドへと出発することになっていた。午前中に礼拝を終えたわたしは出発のための最後のチェックを済ませて、午後6時過ぎに部屋を出て、パソコンのお友達の車で高速のバス停(西合志)まで送って貰った。今夜は福岡に在る教区センターで、ご同行下さる小林司祭と落ち合い一泊して、翌早朝福岡空港に向かうことになっていたからである。教区センターには午後八時過ぎに着いた。夜は誰も居ない教区センターで一人、小林司祭を待つことになる。しかし、福岡教会の堀尾司祭夫人がご用意して下さったお料理をご馳走になりながら、イスラエル旅行の経験がある素子夫人から、旅行中の注意など細々とお聞かせ頂きながら小林司祭を待った。

 小林司祭は、当日(三〇日)は早朝から大分を出て門司聖救主教会での復活日の聖餐式(司式・説教)のご用に当たられ、午後には別府へ戻り、幼稚園の新任の先生方の研修会に出て「祈り」についてのお話をされ、夕食後大分を発って、私が待っている教区センターへ合流の道順。小林司祭が教区センターに着かれたのは午後十一時を過ぎていた。既に床に就いていたわたしも眠っていたわけではないので、明朝何時頃に此処を発つかを決めて寝ることにした。しかし、小林司祭は旅行のための最後の細かいチェックをして遅くまで起きておられたようだった。

 三月三十一日(月曜日)、バイブルランドへ飛翔

 旅立ちの興奮に睡眠を妨げられ、浅い眠りにも拘わらず、ひと寝入りしたら五時を回っていた。既に小林司祭は起きて床には居なかった。もう支度しているのかなぁーと思っていたら、「ヘール・ボップ彗星を見に行ったが今日も見えなかった」と言いながら外から戻って来られた。それから身支度を整え、旅立ちを前にして共に祈ってから、七時過ぎに教区センターを後にして、福岡空港まではタクシーで行った。空港では八時からセキュリティー・チェックがはじまり、それが終わるとチェックイン。そして荷物を預けたり、二人分の出入国カードの記入など一切の手続きは小林司祭にお任せして、わたしは朝の連続ドラマ「ふたりっ子」を見ていた。ドラマの終わるのを待って「名前だけは本人が書かなくては・・・」と書く場所を示されたので、書き慣れない下手な字で「太田國男」とサインした。パスポートを申請したとき、自分の名前は自分でサインし、しかも戸籍上の文字と同じでなくてはならず、「國」という字が書き難いので通常は「国」を使っていたために、殆ど書いたこともない違和感を覚えながらまずい字でサインした。小林司祭は「判ればいいさ」と慰めてくれた。

 小林司祭はソウルまでの搭乗券〈青色〉とテルアビブまでの搭乗券〈黄色〉をしっかり持ち、案じていた出国審査も無事通過して、搭乗ゲート2に行って乗り込むのを待った。福岡空港を一〇時に発つと聞いていたが四〇分ほど遅れて飛び立ち、約一時間後にソウルへ到着した。一〇年ほど前に、ハンセン病療養所教会を対象にした韓国の病友を訪問するツアーが企画され、福岡からソウルまで来て、ソウルからはバスで定着村を歴訪しながら南下し、プサンから福岡まで飛行機で帰った事があった。従って、ソウル空港は二度目だった。以前、テルアビブ行きの乗客をチェックするイスラエル兵に手こずったことのある小林司祭はセキュリティ・チェックを心配しておられたが、何のチェックもなく、ここでも無事通過していよいよ搭乗。小林司祭はソウルでの搭乗風景からビデオを回し始めた。

 ソウルからテルアビブまでの飛行時間は当初十三時間位だと聞いていたが、実際には十一時間半だった。こんな長時間を機内でどう過ごしたらいいのか戸惑った。飛行機は約四百人乗りのジャンボだったが、喫煙席は定員の三分の一程で全ての乗客はお好みの窓際に移動してもよいということで窓際は全席埋まったが、中央席は空いて、四人掛けの所をベッド代わりして長時間を睡眠で費やす乗客もいた。

 わたしは、旅行に出る前から左側の窓際でしかも喫煙席を希望していたので、小林司祭はわたしの希望を叶えてくれた。窓際は三人掛けだったが、小林司祭とわたしの二人だった。ソウルからテルアビブまでに二回機内食が出た。わたしは食べることと喫煙しかすることもなく、小林司祭を窓際へ押しつけるようにして二人分の座席を独占してエビのようにして寝たり、起きたりごそごそしながら仮眠を取った。しかし、小林司祭は時折り窓外を覗きながら「もう、北京上空を過ぎたぜ・・・」とか「カスピ海上空の筈だが・・・」などとわたしに飛行位置を教えたり、また、黙々とこまめにメモを取っていた。そのメモのお陰でこうした旅行記を書くのに助けられている訳だ。

 ところで、午後一時過ぎにソウルを飛び立ち十一時間半も経過して日本時間では真夜の筈なのに、テルアビブ空港に着陸したのは現地時間の夕方六時半頃だった。六時間の時差を実感した。空港に着けば当然の事ながら、入国手続きが待っていた。大分時間が掛かったが問題もなく手続きが終了する頃、予約していたアミエル・ツアーの係りが呼び出しに来た。入国手続きを終えると、アミエルには「コバヤシとアンドウ」となっており、わたしの名前が無く、何故、オオタでは無くアンドウなのか、二人で小首を傾げて考えた。ホテルに着いてから気付いたことだが、「Kobayashi and Ota」の「and」に「ta」が落ちて「ando」になったんだろうと、二人で推測したことだった。 テルアビブ空港からホテルまで、アミエルツアーが用意したタクシーに乗った頃にはとっぷり日も暮れていた。約四〇分余りの夜道をエルサレム市街地の西に在るという「シャローム・ホテル」を目指して夜道を走った。ホテルに着くと、小林司祭はフロントでバウチャーを見せながらサインし、今夜から五泊する六二三号の部屋へ向かった。

 ホテルの部屋に入り、二人はゆっくり深呼吸をしながら「とうとう来たぜ! イスラエルへ」と確認し合うように言葉を交わしていた。そして、小林司祭が入浴の準備をしながら入浴を勧められた。わたしはお先に失礼して入浴をすませ、手指の包帯交換を小林司祭に手伝って貰った。それから、小林司祭が入浴を済ませてベッドに戻って来た。 二人がベッドに入ってから小林司祭は今日一日を振り返りながら、今日の出来事を丹念にメモしていたが、わたしは“お先に失礼!”と睡眠を宣言して目を閉じた。しかし、いずれにしても、今日は終日飛んで目的地に無事着陸したのだが、よくもここまで飛んで来たものだ。機内では体型も儘ならず、充分睡眠を取ることも出来なかった。今はベッドに伸び伸びと、しかもクッションも程良く、明日からの日程を想像しながら、わが夢を載せて天空を飛翔して来た。飛翔の「翔」は羊に羽根が着いている。わたしは「羊」だ。まさに羊が羽根を貰って、天空を駈けて来た気分だ。〈つづく〉


 3「地獄を二度見た」
 四月一日(火)聖地第1日目ー城壁巡り

 午前三時頃、小林司祭が目を覚まして「日本時間では午前九時頃だから、教区事務所と南山さんに、無事に着いたことを知らせよう……」と言いながらダイヤルを回した。回線は直ぐに繋がった。わたし達の旅を案じて祈っていて下さる方々へ無事に着いたことを知らせてから、現地時間ではまだ深夜なので、もうひと眠りすることにした。午前六時頃、聖地第1日目の朝が明けた。今日から三日間はわたし達二人の自由日程で、先ず、わたしの希望であった「城壁巡り」をメインにして、聖地巡礼第1日目の日程を進めることになった。

 ホテルの朝食は七時からだった。食堂の奥まった位置の四人用のテーブルに席を取った。それは、わたしが外食をするとき常に心がけていることだった。なぜなら、不自由な故に不作法な食べ方をするのを出来るだけ見せないようにするためだ。食事はバイキング方式だったので、メニューは小林司祭に一任して取ってきて貰うことにした。しかし、人の好みが良く分からないので苦労された。このご苦労は、旅行中の食事の度毎にお掛けすることになった。小林司祭はオリーブ漬けをおいしそうに食べていた。熱いみそ汁に代わってミルクコーヒーでパンとチーズ、冷えたサラダ、メロン、トマト等を頂いた。満腹感はなかったがカロリーは充分取れたようだ。 朝食を済ませてから、「往きはよいよい、帰りは怖い」の経験をされている小林司祭はもう帰路の心配をされて、帰路の航空券予約の再確認をするためにダイヤルされたが、福岡の旅行会社が教えてくれていた番号が間違っているらしく連絡が取れなかった。コピーした航空券をフロントに渡して調べて貰うことになった。同時にわたしのランドリーサービスもお願いして貰ってからホテルを出た。

 小林司祭がわたしの希望に沿って立てて下さった今日の日程に従って、先ず、ホテルから一キロ程の所にあるというホーリーランドホテルの第二神殿時代(2000年前)のエルサレムの五〇分の一の模型を見に行くことからはじまった。そこで城壁に囲まれた市街の全容を鳥瞰するためだった。此処で日射しが強くなったのでひさしの大きい帽子を買った。実は、イスラエルでは日射しが強いから帽子が必要だということで、旅行に出る前に適当なものを選んで用意したが忘れて来た。普段は帽子を使用しないためについ忘れてしまったのだ。

 ホーリーランドホテルからはタクシーでオリーブ山に行った。そして、最初に行った教会が昇天教会だった。オリーブ山の頂上からイエス様が昇天されたという場所だ。其処ではおみやげにするパノラマ写真を販売していた。それを買ってからエルサレムを東から一望できるユダヤ人の墓地へ来て、岩のドームの金色の輝きを見てはじめエルサレムに来ているのだなぁーと実感した。それからユダヤ人の墓の中、急な坂道を下りながら、ドミヌス・フレビット(主嘆きたもう教会)へ向かい、その途中にゼカリヤ、ハガイ、マラキ預言者の墓はがあり、旧約時代の一時期を担った預言者たちの生涯の一端をかいま見る思いがした。ここは小林司祭も知らなかった所だった。小林司祭は以前二回のツアーに参加され、しかも二ヶ月間ヘブライ大学に留学されたこともあり、イスラエル通だと思って、今回の旅行プランを全てを任せていた。

 食べ終わってから、目の前に東エルサレム郵便局があるので切手を買おうということになった。小林司祭がドルをシケルに替えるのに時間が掛かったが、その間待合室の椅子に掛けて待った。いつの間にかわたしのとなりにアラブ人なのかユダヤ人なのか分からないが七,八才の少女が来て座りわたしを珍しそうに見上げているのに気付いた。その視線に耐えながら小林司祭が早く要件を済ませることを願った。「手続きが面倒で時間が掛かってしまった」と言いながら戻ってきたので、わたしは少女の視線から逃れることが出来てホッとした。 郵便局を出て城壁の北側に沿った道をダマスコ門へ向かい、そこから右に曲がって「園の墓」へ行った。そこで四十五分程開館を待った。わたしにとっては休息の時間になった。小林司祭はわたし達のペンチに来て座ったアメリカの黒人と英語で会話していた。時々その話の内容を通訳してくれたので、二十一年間も看護士をしていること、四十才であること、先日ヨルダン川で洗礼を受けたこと、日本の陶器にも関心があり日本にも来たいこと、明日ロサンゼルスへ帰ることなどが分かった。

 「園の墓」は城外にあり、岩山の岩壁に大きな三つの窪みがあり丁度されこうべを思わせるところで、その近くにアリマタヤのヨセフの墓と思われる古い墓が発見されたことから、ここがカルバリ山ではないかということでクローズアップされた場所である。その真実の程はにわかに断定出来ないまでもその雰囲気はあった。ここでは珍しく日本語の案内が置かれてあった。日本の観光客に便を図っての心遣いであろう。

 いよいよ本日のメインである城壁巡りのためにダマスコ門へ向かった。ダマスコ門で城壁巡りの入り口を探したがなかなか見つからない。小林司祭が近くを歩いていたアラブの少年を呼び止めて尋ねたら直ぐ案内してくれたが、その少年から金を請求された。一シケルを渡してももう一シケルくれとしっこく迫るので更に一シケルを渡した。現在のダマスコ門の左下の小さな門から入ることになった。城壁の入場料は一人九シケル(日本円で約300円余り)を支払って登り口に立った。日射しの強いところから急に暗いところへ来たこともあって、瞳孔の伸縮が対応出来ず、階段は元より手すりがそこにあると教えられてもそれをなかなか確認できなかった。小林司祭が「手すりは此処だ、ほらほら、足を上げて……」としきりに促した。しかし、真っ暗な階段は螺旋状になっているらしい。しかもその一段一段の高さもまちまちのようだ。その様子が自分の脳裏で正しく整理出来ない。小林司祭がお尻を押し上げながら「分からんのか、ほら、手すりは此処だよっ!」とわたしの手を取って教えたが、小林司祭もわたしも、既にパニックになっていた。僅か三,四十の階段を登るとは思えない程の苦労をして、やっとの思いで階段から出た。しかし、ふと見るともなく足下を見ると、わたしの靴が片方脱げていた。小林司祭は一息入れる暇もなく引き返して登り口に落ちていた靴をもって上がって来るなり「俺は地獄を二度見たぜっ!」と大嘆息した。そして、こんな苦労が分かっていたら此処へは絶対連れては来なかったのにと、繰り返し後悔しておられた。暫くは二人共その出口に佇んで呼吸を整えた。その苦労の最中に小林司祭は「わたしは太田執事の念願を叶えるためにこんなに苦労したんだから、わたしは必ず天国に入れる」と思ったそうだ。そこでわたしは言った「それは一寸甘いんじゃないの?」と。そんなやりとりをしながら、呼吸も整ったので、「いざ!城壁を歩こう」ということになった。

 そもそもわたしが城壁巡りをしたいと言い出したのにはわたしなりの理由があった。城壁なら石を積んだものだろうから平らだと思っていた。だから足の悪いわたしでも歩き安いと考えていたからだ。旧エルサレム市街地を囲んでいる城壁だから市街地を一望出来るとも考えていた。高いところから、あの高い塔が何々だ、あの道筋がヴィア・ドロローサだと市街地の全体図を掌握出来、その眺望もいいだろうと考えていたからだ。

 しかし、実際に城壁を歩いて見ると、それらの予想はことごとく裏切られた。城壁からわたしが確認できたのは派手な岩のドームと、僅かな隙間に洗濯物が干してあった庶民生活の雰囲気をかいま見たに過ぎなかった。しかも、城壁の歩道の幅は一メートルも無い。体を横にしてやっと行き交える程度だ。所々に高い階段が何カ所もあって、その度毎に小林司祭の手を借りなければならなかった。ダマスコ門からヤッフォ門までの半分も歩いていないと、小林司祭は言う。しかし、わたしはもう一キロ位は歩いたと感じる程疲れてしまった。もうこの辺で城壁巡りは終わりたいと思っていた。すると、路上に通じていると思われる所に来た。階段の下の方には鉄格子のようなものがあったが、抜けられそうに見えたので小林司祭が調べるために降りて行った。出たら入れない仕掛けになっていることが分かった。わたしもその鉄の回転扉を押して出ることが出来た。城壁脱出の瞬間を先に降りていた小林司祭が撮った。ここは「新門」という所でダマスコ門とヤッフォ門の中間地点だった。新門を出てからタクシーを拾ってホテルへ戻ることにした。しかし、なかなかタクシーを拾うことが出来ず、ヤッフォ門近くにインフォーメーションが在るので、そこまで歩こうと、小林司祭が言う。しかし、わたしはもう歩けないと言って路傍に座り込んでしまった。今になってその時のことを思うと、子供が親に駄々をこねてる感じだった。小林司祭は困惑しながらも「あそこがヤッフォ門だ、見えるだろう?」と、もう直ぐだから、もう少し歩こうとしきりに勧めた。わたしはこれ以上心配を掛けては申し訳けないからと思い、仕方なく重い足を引きずってゆっくり付いて行った。そして、ヤッフォ門の前まで来たとき、タクシーを拾うことが出来た。

 ヤッフォ門からホテルまでの間、小林司祭とドライバーの会話が続いていた。勿論、その話の内容は小林司祭が通訳してくれたので分かった。そして、明日の日程はこのタクシーを予約することになった。ホテルに帰って直ぐ気になっていた足を点検した。あんなに歩いたのに傷になっていなかった。「これは奇跡だ!」と思った。今日一日で歩いた道のりは五,六キロはあったろうか(小林司祭はおまけして二キロ程度だという)。たとえそれが二キロであっても、キデロンの谷越え、その急な坂の上り下りをはじめ城壁巡りなど、わしの足にとっては余りにも過酷だった。しかし、かすり傷も認められないなんて、これを「奇跡」だと言いたい気持ちは分かって貰えるだろう。わたしは改めて今日一日の身に余る大いなる恵みを痛感し感激もして、主の見守りに対して心から感謝した。


4「三つのエマオ探訪」
 四月二日(水)聖地第2日目

 昨日の聖地第一日目は、わたしにとっては強行軍だったため、朝起きたときには脹ら脛が張っていたので歩くと痛みを覚えた。そんなわたしの足のことを気遣って、今日はタクシーを使って三つのエマオを訪ねることにしていた。 聖公会の祈祷書に従えば今日は復活後水曜日で、当日の聖餐式ではルカによる福音書の第二十四章十三節~三十五節(ご復活の主イエス様がエマオで二人の弟子に現われた)が朗読されることになっている。そこで、三箇所の内でエマオの雰囲気が感じられるところで聖餐式をする事にしていた。これは旅行に出る前から二人で話し合っていたプログラムだった。

 朝九時、昨日予約したタクシーが来た。小林司祭が道順を考えて立てた順序に従って、最初にアブゴーシュ、次ぎにアムワース、最後にエルクベイベの三箇所を回って貰うつもりだった。昨日の強行軍とは異なり、今日は終日ドライブということで、目的地で少し歩けばいい、今日は快適な巡礼になりそうで気分も壮快だった。

 実は、エマオと言われているところが四箇所もあることをわたしは今回初めて知った。小林司祭は旧約聖書及び新約聖書の考古学(関谷定夫著)を良く勉強しておられて、各々の場所位置関係は大体脳裡に入っていたようだ。ところがこれが大変なことになってしまった。

 最初に行ったのはアブゴーシュ。エルサレムからテルアビブまでの高速道路から少し外れた所にあるようだったが、タクシーはいきなり山道を走るので、小林司祭は戸惑ったみたい。しかし、エルサレムから十二キロの所だったので、予測していたより早く最初の目的地アブゴーシュへ到着した。二週間ほど前にエルサレムで開催された聖公会の国際会議(各国を代表する主教の会議)に、九州教区の飯田主教が参加しておられ、その折りにこのアブゴーシュを訪ねられたことを私たちは知っていた。そこで、小林司祭が入り口に立っていた黒人の修道士にそのことを尋ねると、〈確かに聖公会の主教達が来て、一緒に礼拝した〉とのことだった。 ここが「エマオ」だという根拠になっている「泉」が出ているのは地下にあったが、そこに団体が先に入ったばかりなので、私たちは上階の礼拝堂へ入った。ここが「エマオ」であるとする説の根拠は、エマオがヘブライ語のハムマー(温泉)という意味であり、現在もここに沢山の湧き水があって、距離も聖書に書かれている60スタディオン(約11キロ)に近いことだ。と小林司祭が教えてくれた。

 泉が出ている箇所は先の団体が取り巻いて説明を聴いており、なかなか終わりそうもないので、暗い地下から出てその庭を少し散策しながら、ここには、緑したたる樹木はあっても街道筋を感じさせる地形的なものに乏しいと思った。ルカ福音書を読んだり、ロバート・ズンド(1827-1909)が描いた聖画・エマオへの旅(Journey to Emmaus)からイメージする雰囲気には馴染まなかった。しかし、此処には修道院があり十三名の修道士が居るようで、黙想や修養には叶った環境のように思った。だからこそここに修道院があるのかも知れない。 次ぎに、第二のエマオを目指すことになったが、ここでドライバーと小林司祭の間で行き違いが生じていた(このことは後になってわかった)。ドライバーが「ラトゥルンには行かないのか」と尋ねた。小林司祭は「次ぎに、アムワースとエルクベイベに行きたい」とこちらの希望を伝えた。実は、「ラトゥルン」というのが私たちの目指す「アムワース」のことだったが、日本ではあまり「ラトゥルン」という地名は本に出てこない。私たちが日本の本で学び目指している「アムワース」と「エルクベイベ」という地名は、彼らの使っている現地の言葉では、それぞれ「イムワース・ラトゥルン(ラトゥルンのエマオという意味)」と「 イムワース・エクベベ(エルクベイベのエマオ)」というのが一般的だった。だから、小林司祭の言った内容がドライバーには「(ラトゥルンのエマオには行かなくてもいいから)、エルクベイベのエマオに行ってくれ。」と受け取られてしまったようだ。従って、小林司祭は、次ぎに「アムワース」に行くと思っているし、ドライバーは「エルクベイベ」を目指して走るという行き違いがはじまってしまった。 アムワースには、クローバの形をした洗礼盤があるので、小林司祭はそれを楽しみにしてソワソワしている。そしてエマオでの聖餐式は三番目に訪問するエルクベイベだから、まだ先の問題だと思っていたらしい。

 しかし、実際に、次ぎに着いた所はエルクベイベだった。その入り口に案内の看板もないので、小林司祭は、ここは「アムワース」だと思い込んでいて、「クローバの洗礼盤」をしきりに探し回っていたが見つからなかった。 英語の話せないアラブのお爺さんが出て来て、先ず礼拝堂に案内してくれた。丘の上に堂々と建っている立派な礼拝堂は関谷先生の本に載っている写真などと照らし合わせて、正しくここはエルクベイベだったがその時にはまだ小林司祭は気付いていなかったと述懐していた。礼拝堂の祭壇やステンドグラスや絵など、エマオを連想させるものが沢山あった。祭壇の上には、「エマオの晩餐」(主イエス様を中央に、クレオパともう一人の弟子と3人で晩餐している様子を描いた像)ステンドグラスが印象的だった。そして、この礼拝堂こそクレオパの家の教会だった。しかし、教会を出てから先の洗礼盤が何処かにあるのではと、礼拝堂北側にある遺跡の説明を聞こうとしていだが、案内人風の、先のアラブのお爺さんの云っていることはアラビア語なので小林司祭には通じない。しかし、そのお爺さんが何か説明している中で「ローマ」といった言葉で、小林司祭が気付いたのは、今私たちが立っている小径はローマ時代の街道ではないか、ということだった。この道の両側に沢山の仕切り(街道沿いの家の土台の遺跡だった)があり、オリーブを搾る臼も幾つか転がっていた。 この街道なら、主イエス様が一緒に歩いて来て話しかける雰囲気があった。まさしく、ズンドの名画「エマオへの旅」を想起するに相応しい環境だった。小林司祭にお願いして、アラブお爺さんとわたしが一緒に並んでその街道を歩いているところをビデオとカメラで撮って貰った。 実は、アブゴーシュからこのエルクベイベに来る途中で、聖画の雰囲気に近いところで聖餐式をするための葡萄酒とパンは買ってあった。そこで“このローマ時代の街道で聖餐式をしよう”と、小林司祭に促したが“ここはアムワースだと思っていたので葡萄酒とパンは車に置いてある。「ドライバーめ、我々を先にエルクベイベへ連れて来ゃがった!」。頭が混乱してその気にはなれない。”ということで、折角用意しているのに、車へ戻って持って来る気力を失っていたようだ。わたしは不満だったが、小林司祭にやる気が無いのでは、心残りだが諦めなければならなかった。小林司祭には、多くの学者に見られる気難しさ、簡単には妥協しないことも分かっていたので催促はせず、第三のエマオ、アムワースへ向かうことになった。

 車に帰ってから、小林司祭が少々興奮気味でドライバーとしきりに会話をしていた。その内容は、先に説明したとおり「アムワース」と「エルクベイベ」についての現地語との違いによる、行き違いを解決する話だった。このエルクベイベは、エルサレムの北西十五キロの所に位置している。ローマ時代の街道跡も残っていて、一番エマオらしい場所だった。そして、アムワースに向かった。エルサレムからテルアビブまでの高速道路より、ずっと北にある道路を南西に向かって、着いた所がラトゥルンのトラビスト女子修道院だった。この修道院までの道は雰囲気がよくてここもズンドの名画どおりの場所だった。しかし、ここには教会の遺跡がなかった。小林司祭が学んで来ているところによると教会の遺跡があり、クローバの洗礼盤もあるはずだったが、それも見あたらなかったので、一応中に入ってお祈りをした。それから、関谷先生の本によると高速道路を隔てた北側に遺跡がある筈なので、そこへ連れて行くようドライバーに頼んで、漸く目指す教会の遺跡とクローバの洗礼盤も見ることが出来た。ここでも記念写真を撮った。私たちと時を同じくしてここを訪ねてきた一団のグループが遺跡の中庭で踊ったり歌ったりしていた。ここはエルサレムから30キロ離れていたがアムワースという名前自体が残っており古くからの礼拝堂(遺跡)があることから此処をエマオとする根拠になっているようだ。

 もう一箇所、ここが「エマオ」ではないかと云われている「ウルタース」という所がベツレヘムに近いところにあるが、そこは考古学的裏付けに乏しいこともあって省略して行かなかった。このアムワースから一路ホテルへ戻ることにしたが、ドライバーの勧めでベツレヘムの土産屋に立ち寄って、小林司祭は頼まれていた土産物を少し買った。そして、ホテルに戻って来てから、復活後水曜日の聖餐式をして貰った。本来、行き違いがなければエルクベイベでする予定だった。これで今日の日程を終了したので、安心してひと眠りすることになった。

 その後、小林司祭はスーパーへ行って水や牛乳などを買って来た。牛乳はわたしが便秘を起こしていたので飲むように勧められたが、昼間の事(あのエルクベイベのローマ時代の街道跡で聖餐式をして貰えなかった無念さ)がまだ心に残っていたこともあって、その時は飲む気になれなかった。ホテルで夕食を済ませてから、ベッドに入って、悔いの残った一日を共に反省し、翌日のことを話し合ってから眠りに就いた。


5「あの方は復活なさって、ここにはおられない」
   ー聖墳墓教会を訪問ー
 四月三日(木)聖地巡礼第三日目(休息日)

 昨夜、就眠前の話し合いで、今日は二人の休日にしていた。わたしは、初日の行程が私の足にとって過酷であったため、脹ら脛、アキレス腱までが張って痛みを感じていた。そして、明日から四日間のツアーがはじまるので、休息をとって備えることにした。わたしが休息をとることで、小林司祭には終日自由時間をとって貰うことになった。従って、小林司祭にとっても休息になる筈だったからだ。

 小林司祭は、わたしを一人ホテルに残して出掛ける事を気兼ねしながらも、いそいそとホテルを出て行った。ホテルに残ったわたしはベッドに入って暫く睡眠をとった。一眠りしてから、小林司祭が持って来ていた考古学の本(関谷先生の著書)、イスラエルやエルサレムの地図等旅先で必要になると思われる資料を沢山持って来ていたので、それらの中から、クローバの洗礼盤のことやエルサレム旧市街地の遺跡のことなどについて記述されているところを手当たり次第読み耽った。そして、小林司祭がこれまでに色々説明してくれていた大部分がこれらの資料より得た知識であったことを知ると同時に、事前に勉強して備えていたことも分かって感心した。実は、この度の聖地巡礼の旅を計画したときから、折々に小林司祭から、旅行案内やエルサレム巡礼記の小冊子など旅行に備えて何冊かを頂いていたが殆ど読んでいなかったことを恥ずかしく思った。その反省も含めて、この休日を利用して取り戻すことにした。しかし、充分に取り戻すことは出来なかった。

 小林司祭は七年前に二ヶ月間ヘブライ大学に留学していたときの思い出と懐かしい所を訪ね歩いて来れば、そう早くには帰らないと思っていたが、早々と午後三時頃にはホテルに戻って来た。西も東も、しかも言葉も通じない者を一人残して出掛けたことを後悔するように“不自由しなかったかなぁー、自分だけ楽しんでしまった。”と、わたしを気に掛けてゆっくり出来なかった様子だった。しかし、事前に考えていたもの(書籍など)を一応買い揃えることが出来て嬉しそうだった。そして、明日行くことになっているヴィア・ドロローサの下見を兼ねて歩いて来たこと、買って来た本の説明などしながら、自分が外でして来たことを詳しく話してくれた。そして、ホテルの売店がなかなか開かないので、こちらに来てから毎夕水やパンを買いに行っているスーパーへ行って、わたしが気に入ったパン(ピタという中が空洞で何でもはさめるパン)を買って来た。それからわたしが用意すべきお土産品をホテルの売店で買ってから夕食を摂った。しかし、夕食に出たパンはパサパサして美味しくなかったので、部屋に戻ってからピタとぶどう酒で乾杯した。「先週の木曜日は最後の晩餐だったから、それなりに意味はあるだろう」というのが小林司祭の取って付けたような意義付けだった。エマオで聖餐式をしなかった反省も含んでの発言だろうか?それから、昨日は、前もって学習しておかなかったから、思い違いによるトラブルが生じるんだから、今夜はしっかり学習しておこうということになった。

 明日はツアーの初日で、オリーブ山をはじめイスラエル博物館、そして初日のメインであるエルサレム旧市街を巡礼するようだから、ということでその道順や関連の事柄についての概要を聞いたり、参考書の説明を読んで貰ったりして、今夜は早目に就眠した。

 四月四日(金)聖地巡礼第四日目(ツアー初日) ヴィア・ドロローサへ

 昨日の休息は効果があって、足の浮腫も和らぎ痛みも殆ど感じないまでに癒やされて、爽快な目覚めだった。今日からはじまるツアーのガイドは邦人かユダヤ人か、はたまた、男性か女性か、年齢は幾つか、昨晩から気になっていた。小林司祭に“若い女性のガイドさんだといいね”といったら、“そんなことを考えているのは太田先生ぐらいだ”とあっけなく打ち消されてしまった。しかし、わたしは納得できなかった。もう一つ気になっていたことは、今回の現地ツアーに参加しているのは私たちの他にどんな方々がいるのかであった。この事については小林司祭も気にしていたようだ。

 そんな期待と不安を感じながら、朝食を済ませてロビーに出て待っていた。すると、若い日本人男性が人を捜すようにロビーを行ったり来たりしていた。小林司祭が近寄って尋ねたら、私たちと同じツアーに参加する一人だった。どうも今回のツアー参加者はこの三人のようだった。 待ち合わせ時間の九時が近づいた頃、ホテルの玄関前にマイクロバスが止まり、中からユダヤ人らしい女性が降りて来てロビーのカウンターへ行き何か打ち合わせをしてから、ロビーを見回し、私たちの方へ寄って来たので、小林司祭が応対したら、やはりこの度のツアーのガイドさんだった。小林司祭は、わたしが障害者であり、殊に足が不自由なので宜しく頼みます、ということも伝えたようだ。そのガイドさんが“良く分かりました”とばかりに、わたしの方を見て笑顔で頷いた。 早速、用意されたマイクロバスに私たちともう一人の若い男性の三人が乗った車の中には、これから四日間のツアーのドライバー、ポーランド生まれで南米に移住し、イスラエルに来たユダヤ人男性・ツビさん、年齢は分からなかった。ガイドさんは、旧ソ連のウクライナ出身のユダヤ人女性・リマさん、年齢は聞けなかったが三〇代後半と見た。リマさんは日本に留学していたという。従って、多少は聞き難いところもあるが十分通じる日本語で案内してくれるので嬉しく思った。

 車はホテルから一路、オリーブ山へ向かった。そしてエルサレム旧市街が一望できる、ユダヤ人墓地の展望台で、エルサレムの町の意味をはじめ、歴史、殊にアブラハムからダビデまでの旧約の歴史、お墓への埋葬の仕方など長々と聞かされた。旧約聖書のおさらいをしているようだった。この後はオリーブ山を降るわけだが、今回は車での移動だったので助かった。最初に来たときは中には入らなかったが、今回はリマさんの説明を聞きながら、ゲッセマネの園、その中にある万国民の教会を訪ねた。そこからキデロンの谷を隔てて丁度目の位置にエルサレムの神域があり、岩のドーム(黄金ドーム)を真近に望むことが出来た。教会では歌ミサが捧げられていた。その歌声が荘重で美しく響いてうっとりするほどだった。 それからキデロンの谷を車で楽々越えて糞門で車から降り、嘆きの壁に向かった。その途中で、“ナザレのイエス時代の生活”というカラーイラストが入っている本を使って、神域南西角の発掘現場の説明を聞いた。ヘロデ王が行った神殿の拡張工事で埋められたテュロペオンの谷に通じる階段やその出入口跡が発掘されたことなど詳しい説明がひとしきり続いた。その間に小林司祭が“あの本は日本語版も俺は持っている”と、半ば誇らしげに耳打ちした。その時も、流石に小林司祭は勉強しているなぁーと感心した。それから、“嘆きの壁”に向かって一生懸命に祈りを捧げているユダヤ人たちの姿を見た。そして、そこを後にするとき、私たちとツアーを共にしている若い男性に向かって、自己紹介をして、その方(荒島さん)は、立教大学出身でコンピューターのシステム・エンジニアであることを知って、パソコンを愛用しているわたしには身近な感じがした。

 次は、イスラエル博物館の死海写本館へ移動した。丸と四角、白と黒というコントラストで、二つの大きな建造物だった。一つは死海写本が保存されていた壺の蓋の部分がデザインされていた。一見単純だが面白いこのコントラストは、死海写本の中に出てくる“光の子と闇の子の対決”などの思想を表現した建て方だと言うことを知った。この後に、ヤッドバシェムに向かった。

 ヤッドバシェム(〈記念と記憶〉とか〈名前の記念〉という意味)は第二次世界大戦中のユダヤ人虐殺の記念館で、まわりは公園になっている。この園内にはいなご豆の木が沢山植えてあって木陰を作っていた。このいなご豆の木の実(種のひと粒)はダイヤモンドの計量単位である〈カラット〉の基準になっているという。記念館へ向かう途中にはユダヤ人を助けた人々の名前を記した名札が樹木の根元に立てられていた。勿論、ドイツ人シンドラーの名前も記されていた。その名札の脇に小石が積んであった。ここを訪れたゆかりの人が積んで行ったのだろう。今年のはじめに、ユダヤ人を助けた日本人の杉原千畝さんのことをテレビで放映されていたことを思い出し、杉原さんを記念した記念樹、名札を捜して貰う事になり、リマさんが多分この辺だというので、小林司祭や荒島さんも一緒になって捜し当てた。ここにもやはり小石が積んであった。私たちも思い思いの小石を拾って来て積んだ。 それから、アラブ料理の昼食をとることになった。エルサレムからベツレヘムへ向かう途中、ヨセフとマリアが泊まったという伝説から記念のギリシャ正教の教会があり、敷地内の、昔は宿泊施設であった所が、現在はレストランになっていた。しかし、あまりに人が多くて食べられそうにないので、エルサレムへ引き返し、ヤッフォ門の西方にあるレストランに入った。わたしはあとになって知らされたのだが、私たちの隣のテーブルで食事していたのは、イスラエルの二代前の大統領のイッツハク・ナボン氏であったという。

 ヤッフォ門から再び糞門を通り、ライオン門(ステパノ門)を過ぎてから、イエス様が裁判を受けられたピラトの官邸の庭から、ヴィア・ドロローサの各ステーションの説明を聞きながら、このヴィア・ドロローサのメインの聖墳墓教会(イエス様が復活された場所で、復活教会とも呼ばれる)へ辿り着いた。

 薄暗い会堂内、手にしたローソクの明かりで巡礼している集団もいた。いろんな国から遙々とここを目指して来た人々で埋め尽くされ、噎せ返るような異常なまでの雰囲気が堂内に満ちあふれていた。イエス様がおかかりになった十字架が立っていたという場所に口付けしたり、さすったりする順番を待っている人たちである。そこはわたしが簡単に触れられるような位置ではなかったので、そこを通り過ぎ、イエス様が十字架から降ろされたときご遺体を安置した場所をさすって来た。ここで、マルコによる福音書のイエス様の復活の朝の記述を思い出していた。“若者は言った。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」(マルコによる福音書第十六章六節)”

 この聖墳墓教会が建っている所はゴルゴタの丘であるが、紀元三二六年、ローマのコンスタンチヌス皇帝の母君ヘレナが巡礼した時、この場所を発見し、後にその母君の要望で大きなバジリカ(礼拝堂)が建てられた。しかし、現在のものは十字軍時代に増築されたものだという。その教会の地下室になっている所があって、そこで聖十字架が発見されたという石切場跡があり、上階の賑やかさから閉ざされたようなヒンヤリと静まり返った空間が広がっていた。ここに来るといつも気持ちが落ち着くと、小林司祭は言う。前日下見を兼ねてここを訪ねて暫く黙想したという場所、小林司祭おすすめの穴場だった。

 そこを出て、ユダヤ人の町で昔のメインストリート、カルドーへ行き、紀元前八〇〇年頃の城壁跡を見て回った。ヴィア・ドロローサの第七番目のステーションからは昔の城壁の外であったことを証明する遺跡であった。その後、今日は夕方よりシャバット(安息日)に入るので、日没前にホテルへ帰った。

 今夜はレストランではなく、一階の喫茶店で軽食ですまそうということになった。テーブルのメニューにスパゲッティがあったので、小林司祭が注文したが、「シャバットだからダメだ」と断られた。熱を加えるような料理は出来ないというのだろう。サラダやサンドイッチなら出来るというので、その両方とも二つずつ注文した。私たちは日本で食べ慣れているサンドイッチやサラダの量を想像して、一人で両方食べないと満足できないのではと勝手に思い込んでいたからだ。しかし、簡単な料理の筈なのになかなか運ばれて来ない。変な予感を覚えながら、手持ちぶさたを紛らわす意味のない会話を交わしていたら、テーブルに並ばない程の量のサラダとサンドイッチが運ばれて来たのを見てその量に驚いてしまった。軽食のつもりが大食の夕餉となってしまった。結局、運ばれて来た半分以上も食べ残して引き上げるという、何とも呆れた幕切れだった。部屋に帰ってからも共に今日の結末を反省しながら、明日は五泊したシャローム・ホテルともお別れになるので、室内に広げていたものをパックした。


6「イスラエルを南に北に」
ー黄金ドーム・ベツレヘム・カイザリア・ナザレ・ガリラヤ湖へ ー
 四月五日(土)聖地巡礼第五日目

 今日は、ツアー二日目だ。このシャロームホテルで五泊もして、すっかりホテル暮らしにも慣れたところだ。チェックアウトとなると名残惜しい気分になった。朝食後、小林司祭がカウンターで食事代など追加料金一八八.七五ドルの支払いを済ませた。そして、暫くロビーでツアーのマイクロバスを待った。予定時間にはそのバスが来たので、今日の最終目的地ガリラヤ湖畔のホテルを目指してシャロームホテルを後に出発した。

 はじめに行ったのはエルサレム旧市街、前日は金曜日だったので、神域には入ることが出来なかったので、今日は先ずその神域へ入るために、ヤッフォ門から入って、アルメニア人地区を通過し、糞門の内側にある駐車場で車から降りた。今日は嘆きの壁の中には入れるものの、カメラは向けられない。しかし、今日はその嘆きの壁を左下に見ながらゆっくり歩いて神域へ向かった。その神域は、以前には神殿が建っていた所だ。現在はイスラム教のアル・アクサモスク、そして黄金ドーム(岩のドーム)が建っている。その神域は旧エルサレム市街地の中では一番高い所に建っていることもあってか強い風が吹いていて、リマさんの ガイドする声が時折、ちぎれて聞き難かった。アラブ人はこのモスクに入る時は、手と足と耳の後ろを洗う習慣について、リマさんが詳しく説明してくれた。モーセとエリヤが自分の後ろに立っているので耳の後ろも洗うのだそうだ。黄金ドームを背景にして二人並んで記念写真を撮った。その黄金ドームの中には大きな岩がありその岩の上からマホメットが昇天したとか、また、アブラハムがイサクを犠牲として捧げるために使った所(岩)だという説もあるが、真意のほどは知る由もない。

 そこから八キロ程南下し、ベツレヘムの聖誕教会へ行った。この教会はキリスト教が公認されたあとで最初に建てられた教会であることを知った。この朝の礼拝が長く続いており誕生の場所に入るのに時間が掛かった。前日の聖墳墓教会でもそうだったが、ここでもイエス様の誕生の場所だと言う所に、ひときわ輝いた「白銀の星」が填め込まれ「ここにてイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給えり」とラテン語で記されていると、小林司祭が教えてくれた。東方の博士たちを導いた星がベツレヘムの馬小屋の上で止まったことが由来らしい。その「白銀の星」に触れようとする人の群でなかなか先へ進まない。やっとの思いでそこを通り抜け、お隣のカトリック教会では、イースターガーデンが飾られていた。それから、ヒエロニムスの等身像を見てから、おみやげ屋に入った。小林司祭が頼まれていた聖家族の像等を買って、これで品数は大体揃ったと云っていた。

 この後、地中海沿岸のカイザリアに向かった。イスラエルを南東からやや斜めに西北へ縦断する行程だった。カイザリアの海岸に建てられた半円形の演劇場遺跡も石灰岩に漆喰が塗られていたようだが、発掘後風化してあっちこっちが剥げていた。現実に発掘後に風化した痛ましい遺跡を見て、遺跡保存の難しさを覚えると共に、何でも発掘すればいいと思えなくなった。海岸は潮風が強く漆喰加工が必要だったことも知った。そこからそう遠くないところに首のない皇帝の像が建っていた。皇帝が代わる度に像を造るのは大変だから、首から上だけを取り替える方が手っ取り早かったのだろう。今日と変わらない合理的な一面を見る思いだ。正に文字通り〈首の据え替え〉だと大笑した。カイザリアから今度は東に向け、今は遺跡となった石造りの水道橋の側を通った。一端車から降りて見に行ったが風が強くてじっと立って居られないほどだった。小林司祭は車の中から写真を撮っていた。それからセルフサービスの食堂で昼食を摂ってから、ナザレへ向かった。

 ナザレでは勿論、受胎告知教会へ行った。礼拝堂に入ったら、聞き慣れた日本語で礼拝している日本人の集団があった。わたしは誰だか分からなかったが、祭壇でミサを司式している方はカトリック教会の白柳枢機卿だと、小林司祭が教えてくれた。「よく知ってるねぇー」とわたしが感心していたら、小林司祭が「あのじゃがいものような丸い頭に赤い帽子(枢機卿しか冠れない帽子)を冠っているので、直ぐ分かるさ」と云った。

 「枢機卿」といえば、ローマ教皇につぐ高位聖職者だから日本でも有名な一人だ。その二階の礼拝堂にも、イースターガーデンが飾ってあったが、各国の画家達が描いて捧げたという聖母子の画が会堂の周囲に掲げられていた。その中の一枚に日本の画家・長谷川路可の「華の聖母子」(日本の着物姿でその袖模様には真珠がいっぱい使われている珍しいもの)が掲げられていてホッとさせる、記憶に残る一枚だった。ここを出てから、小林司祭も初めてだという、ギリシャ正教会の聖ガブリエル教会へ行った。そこには井戸(泉)があって、マリアがこの井戸に水汲みに来ていた時、ガブリエルからみ告げを受けたとギリシャ正教会は信じて教会を建てたと云う所だった。当時のナザレ村の人たちの飲み水はこの泉で賄われていたそうだ。小さな村落の人口は少なかったろうから十分足りていたと思われるほど、現在でもこんこんと湧いていた。その泉の水を汲み上げて飲んでいる人もいたし、ポットに入れて居る人もありで、例に違わずここも混雑していた。

 ナザレを後にして、いよいよ一路ガリラヤ湖へ向かった。途中でガリラヤ湖へ流れ込む北部のヨルダン川を渡って、ガリラヤ湖東岸にあるリゾートホテルのラモットホテルへ着いた。今日一日のドライブの疲れを癒やすことになった。湖上はガスか霧か分からないが一面を覆っていて見晴らしは悪かった。明日の天候が気に掛かる湖上だ。ガリラヤ湖の夕日は素晴らしいと聞いて楽しみにしていたが、それを望むべくもなかった。従って、湖畔の散策もせず、明日に備えて早く寝ることにした。小林司祭はもう帰国の手続きやその準備を万端怠りなくと、今日本へ電話を入れれば日本は昼だからと、教区事務所の管理人さんに電話して、帰国する八日に教区センターで一泊するための電話連絡をした。小林司祭の頭の中では六時間の時差のあることは分かっていたようだが、しかし、日本の方が遅いと錯覚して、教区センターの管理人さんを真夜中の十二時過ぎに起こしてしまった。今日一日の締めくくりは小林司祭の失敗の悲鳴で閉じることになった。旅での失敗は旅が終われば楽しい思い出に変わるものだからと、わたしは慰め役を努めながら眠りに就いた。小林司祭は入浴してから、いつものように今日一日を振り返りながらメモに専念しているようだった。


7「銀貨を断って シケルを出したシケた話」
 四月六日(日)聖地巡礼第六日目

 ガリラヤ湖畔での朝は、わたしはぐっすり寝込んでいたが、小林司祭は四時半に起きて、この旅のはじめから見たいと云って気に掛けている話題のヘール・ボップ彗星を見に行って、“ダメだった(彗星は見えなかった)”と云いながら戻って来た時に明けた。湖畔には薄い霧が立ち込めていたので見晴らしは良くなかった。今日は船でガリラヤ湖を渡るのだが乗れるんだろうかと、その心配が私には先に立っていた。

 朝食後、一夜のラモットホテルを出て、先ずカファルナウムに行った。そこでも日本人旅行団と出会う。荒島さんによると昨日ナザレで出会った団体だと云う。ここにはペトロの家跡の上にフランシスコ会が大きな船の形をした礼拝堂を建てていた。これは、小林司祭が九年前に来た時には無かったそうだ。そのペトロの家跡は間仕切りが分かる程度の遺跡だったが、この所(家の入り口)はイエス様も出入りされた所だと、リマさんが説明していた。その直ぐ近くにユダヤ教の会堂(シナゴク)の遺跡もあった。

 それから、タプハの五つのパンと二匹の魚の奇跡の教会に行ったが、その時は礼拝が捧げられている時だったので、なかなか中には入れず、庭先で時間を費やした。その庭先に、アムワースで見たのと同じクローバの形をした洗礼盤を見せられ、リマさんのガイドによると、ガリラヤ地方ではここにしかないと聞き感激した。そこからまた、緑豊かな山間をドライブしながら、やがて、山上の説教(祝福の山)の教会に着いた。一番高い場所に教会が建っていた。そこからガリラヤ湖を一望することが出来た。イエス様は湖の方向に、弟子達は湖を背にして、八福の説教を聞いたのだろうか。リマさんのガイドによれば、湖に向かって扇状に裾を引いたように広がっているので、遠くの方に居た群衆にもイエスの話が聞き取れる最適な場所だったという。数千人の群衆が集まれる場所であり、拡声器の無い時代に大群衆に向かって説教するのに恰好の地形をここに用意されていたのかも知れないと思った。

 そこから、キブツが経営しているノフ・ギノッサルへ行き、「イエスの舟」というボートに乗ることになった。小林司祭が、前に二回乗ったのは、ティベリアからカファルナウムまで行く、普通の観光船だったらしいが、今回の舟はそれとは違っているそうだ。十一年前、このあたりで、イエス時代の舟が発見されて、ここのキブツに展示されている。それを元にして、模造した(元よりだいぶん大きいが)のが、この「イエスの舟」だそうだ。私たちの乗ったのは「ルカ号」だ。その客は私たちのツァー一行、と言ってもガイドを含めて四人だった。船員の方が多いのではと笑いながら船上の人となり、湖上から見る周囲の風景を楽しんだ。タブハ辺りから引き返す三〇分程度の短い船旅だった。しかし、ルカ号の船首のマストに日の丸まで揚げてくれたが、こんな経営で大丈夫かと、小林司祭が心配した。

 実は、この船に乗る前に、前日ナザレの聖告知教会でミサを行っていた白柳枢機卿とその一団と桟橋で一緒になった。その時、小林司祭が白柳枢機卿に走り近寄って挨拶程度の言葉を交わして戻って来た。それが私には得意そうに見えた。

 ルカ号を降りてから、先ず食事をするか(ここでの食事はペトロの魚がメイン)、それとも洗礼の場所を先に見に行くか尋ねられた。小林司祭が私に念を押すように“太田執事は魚嫌いだけど、どうするか”と聞いて来た。“荒島さんや小林司祭が承知してくれれば、セント・ピーターズフィッシュは遠慮したい”と断った。(ところがこの後直ぐ後悔することになる)。そこで、ここから余り遠くない所にある洗礼の場所に行った。

 洗礼の場所の入り口に、その由来が書かれていたのを小林司祭が要約して教えてくれたところによると、其処はガリラヤ湖からヨルダン川に流れ出す河口近くにあった。聖書で書かれているイエス様が本当に洗礼をお受けになった場所はエリコ付近だったが、現在ヨルダン領になっていて簡単に誰でも行けないのでここに作られたと言うことだった。園の墓の前で小林司祭と話を交わしていた黒人はここで洗礼を受けたのだ。川辺には洗礼を受ける時浸水し易いような施設が在った。小さい魚が泳いでいるのを見つけて、荒島さんや小林司祭が童心を取り戻したように騒いでいた。そのうちに、わたしは生理現象を催してトイレに行きたいと云った。ガイドさんがここのトイレはお金を一シケル払わないと入れないと教えてくれた。“一シケルですか、シケたトイレだ”と呆れながら用を達した。ここへ来る前に、やはりペトロの魚をご馳走になっておくべきだったと後悔した。何故なら、ペトロの魚には銀貨が入っていた筈だから(マタイ十七章27節)。後に聞いた話だが、レストランに入ってセントピーターズフィッシュの料理を注文すると、団体の誰か一人に銀貨(?)が入っているそうだ。

 後悔しながら、今度はこの旅に出る前から考えていた、緑の牧場で羊が群れているところを撮ることに思いを移した。その旨をガイドのリマさんにも伝えて車を止めて貰うことにした。ヨルダン川に沿ってエリコへ下る道路沿いにはそんな気配もなくどんどんエリコが近づいて来る。やがて十数匹の羊が草をはんでいる群と出会ったが、そこは緑豊かな牧場でなく、畳二、三畳位の所に青々と茂った草地で、そうしたところが点在している砂漠地帯だったが、小林司祭にお願いして何枚か撮って貰った。先には、シケたトイレに呆れ、ここでは自分の思いを裏切られてガッカリしていたら、小林司祭が“そんなことは最初から分かっていた筈だ”と笑っていた。因みに、この時に撮って貰った羊の群の写真がわたしのホームページ“緑の牧場(菊池黎明教会)”のトップページを飾っているのだ。

 エリコの近くで昼食を取ってから、エリコの城壁の遺跡を見に行った。砦が崩されて出来た石ころがゴロゴロしていて足許が悪かったが私の足をみんなで気遣って、私の歩行に調子を合わせてくれたので城内を回るのに時間が掛かった。しかし、リマさんのガイドも長かった。今世紀最大の発掘・発見と騒がれた九千年前の城壁を見て、このエリコという所がずーっと以前から重要な地点であったことを知って感動した。

 エリコの城壁を出て、イエス様が四〇日四〇夜断食し誘惑を受けられた厳しく険しい山を西に眺めながら一路南下して死海へ向かった。その途中には、死海のほとりに在るクムランの洞窟。そこで死海文書が発見された。そこは走りながら車の中から見るだけだった。先に死海写本館でじっくり見たのだから。

 死海文書が発見された経緯をものの本で読んだことがある。先にも書いたように、砂漠の所々に二、三畳位の一寸した窪地が在ってその窪地に溜まった水分で草が生え羊の恰好の餌場となっているのだ。羊飼いはその点在する草場を捜しては羊を移動させて行くのだそうだ。その事が今回のイスラエルの旅を通して良く分かった。そうして羊を追って移動している内に羊が洞窟の中へ逃げ込んだので、羊飼いの少年が羊を追い出そうとして石を取って洞窟に投げ込んだら壺が割れる音がしたので、中に入って見たら、壺に入っていた羊皮の巻物を発見したというのだ。それが二千年間、誰にも発見されずに保存されていた旧約聖書の写本であったという。例え其処に洞窟が在ったとしても、何も好きこのんで入る者とていなかったのだろう。たまたま羊がその洞窟に逃げ込んだので、羊飼いの少年は羊を取り戻すために石を投げ込んだに過ぎない。しかし、それが世紀の大発見につながったのだ。そうした状況が容易に想像出来た。

 牛乳でも流したような白く濁ったような死海を眺めながら、海抜マイナス三九二メートルの海面までずーっと下って、午後四時頃ホテルに着いた。早速、死海に浮かぶ身支度をした小林司祭と共に、ホテルの前の海辺へ急いだ。この浜も風邪が強くてビーチパラソルがバタバタ音を立てていた、私が被写体になる唯一の機会だとばかりに、私はカメラを渡されたが、シャッターが深くてなかなかタイミングが合わず苦労していたら、小林司祭が“ビデオカメラならいいだろう”と云って部屋へ戻って取って来た。そして死海に浮かんだ小林司祭をビデオに納めることが出来た。小林司祭は九年前にもここで浮かんだそうだが、今回は夕食までたっぷり時間もあって、リラックスした気分だと満足そうだった。夕食は荒島さんと三人でテープルを囲み乾杯した。荒島さんの話では、社内報に今回の旅行記の原稿を出すことになっているので、自分が死海に浮かんで新聞を読んでいる写真を撮って来たという。後日、その社内報を送ってくれた。岩のドームや死海に浮かんだ写真が入っていた。

 部屋に戻ってから、小林司祭がビデオを再生し、死海に浮かんだ自分の姿を確認したり、明日のためにバッテリーを充電した。そして、今日の行程で印象に遺ったことなどをお互い面白おかしく反省しながらベッドに入った。私にとってはしけたり、ガッカリすることの多い一日だった。


8「マサダ」の驚異!
   ~ユダヤ人魂(矜持:きょうじ)の原点~
 四月七日(月)聖地巡礼第七日目

 今日はこの度の聖地巡礼最後の日となった。今日は、四日間のツアーを共にした荒島さんと三人で、海で浮かんだ時の印象や海水の効用などを話題にしながら食べた。今日のメインは「マサダ」だ。死海のホテルを九時に出て、死海沿岸から西へニキロ程のあまり遠くない所に「マサダ」があった。その頂上はテーブルのように、周囲は切り立った断崖になっていた。その高さは、西側(約180メートル)と東側(約250メートル)と異なるけれども、ロープウェイが架かっている東側には、その頂上を目指して、くの字 型に曲がったつづらおりの細い道(蛇の道とも呼ばれていた)が伸びていた。その坂道を何人かの人たちが一歩一歩ゆっくり登って行くのが見えた。わたしたちは勿論大方の観光客はロープウェイで登る。そのロープウェイの距離は約4、5百メートル位いだったと思う。観光客が一日に三千人ほどここを訪れるそうだ。現在四○人乗りのゴンドラ二台では運びきれないので、二基目のロープウェイを建設中だった。すし詰めのゴンドラで一○分ほどかけて登った。降りたら直ぐ平らな所へ出るのかと思ったら、降りたところから更に、あまリ良くない足場が架かっていた。そこは急な階段になっていたり、丁度ビルの工事現場によく見る足場のようだった。足元を見れば足がすくみそうだった。そんなとき何時も私の後ろにいた小林司祭が「太田先生、大丈夫か」と声を掛けていた。時にはお尻を押したり、腰を支えたり、されながらやっとの思いで項上に辿り着いた(エルサレムの城壁を歩いたときのことを思い出していた)。頂上から眼下に死海を挑望すると、このマサダ(山岳要塞の意味)がよく理解できた。南北に長い死海の中程にくびれたようになっている箇所を覧視するような位置にマサダの要塞があった。この死海がくびれた所の東西の海岸から半島が伸びていて、干ぱつ千ばつが続くとその半島がつながってしまうと、リマさんが説明していた。だから、死海の航空写真なども、繋がっているものとそうでないものとがあるのだ。そして、死海を隔てた両国が争う重要な拠点ともなっていたようだ。頂上に築かれていた要塞は死海に沿うように南北に長くその距離は約六○○メートルほど、その中は東西二百数十メートルあるとのことだった。丁度甘藷の形に似ている。一九五五年から約十年問に、三回発掘調査が行われ、その全容がほぼ明らかにされた。咋年は岩山を刳り貫いた水槽が新たに発見された。それは、頂上に降った雨水を導いて貯めるように工夫されていた。そして城壁の全長は一・四キロメートル、そして三○数ケ所に建てられた櫓によって堅固を誇った難攻不落の要塞であったと思われた。その台地の面積は約八へクタール(約ニ五○○○坪)とのことだ。この余り広いとは思えない山項に、へロデ王が好んで起居した北宮殿をはじめ西宮殿(中央宮殿)、シナゴーグ、兵舎、家屋、倉庫、サウナや浴室等が点在し、こんな狭い所に千人近い人々が生活していたとはにわかに信じられなかった。そして、宮殿に施されていた二○○○年前の色彩の鮮やかさにも感動した。そして、地上の連絡に使っていたと思われる鳩を飼育していた鳩舎の遺跡もあった。その鳩の糞を畑栽培の肥料にしていたと、リマさんが説明していた。 このマサダでの遺跡案内は二時間以上を費やしたように思う。その間に、このマサダを訪れるのは旅行者や観光客だけではなく、ユダヤ人小学生グループや団体が引卒者の説明を熱心に聞きながら見学しているのに何組も行き合った。何故なら、このマサダはユダヤ人にとっては魂の古里というか、ユダヤ人魂(矜持:きょうじ)の原点ともいわれているところだからである。リマさんの熱心な説明によれば、毎年、若いイスラエルの兵士達はここで演習するのだという。エルサレムの神殿がローマ軍によって崩壊されたのが紀元七○年。その時に生き残った愛国者達はこの難攻不落のマサダの要塞に籠城した。世界に誇る強力なローマ軍がこのマサダを包囲し、陥落するまでに三年もかかったという。要塞の西側に巨大な傾斜路を築さ、火矢を打ち込んで火を放つまでに城壁へ迫った時、城内では痛ましい悲劇が起った。ローマ軍の報復と彼らの捕虜になることを嫌った愛国者達は、敵の手に落ちた時の恥辱と苦しみを想起しながらお互いに死ぬことを鼓舞し合ったという。しかし、誰一人としてわが愛する妻子を殺すことは出来なかったという。そこで一○人を選んで、他者を全員殺す役目が与えられた。この悲しい役目を担った一○人は一人残らず殺害したあとで、お互いの間でくじを引き、くじに当たった一人が残りの九人を殺害した。この役目を果たした最後の一人は生き残っている者が居ないことを確認した上で、王宮に火を放って自害したという。その事を語り聞かせるガイドのリマさんもその都度心が痛むことだろう。聞く私たちも気が重くなる思いだった。この悲劇のすえに、難攻不落の最後の要塞が陥落した。しかし、ローマ軍が城内に入った時、彼らを待っていたのは千体にも及ぶ、るいるいと横たわる遺体だけであったどいう。マサダがユダヤ人の愛国心を鼓舞する原点として、今に語リ継がれるゆえんがそこにあるのだと感動を持って受け止めた。後世、ビザンチン時代にはこのマサダの廃墟に修道者が住んで礼拝していたといわれ、その礼拝堂の祭壇と思われる所に、指導者の遺体を納めてあったという石棺が遺っていた。小林司祭は、このマサダには今回で三回目、しかし、初めて見る水槽もある、最近発堀されたのだろう。水を買って貰ったが、小さなボトルが五シケル、エルサレムのスーパーではこの三倍もある大さなボトルでも四シケルだったから、やはり「観光地」価格だろうと苦笑していた。いずれにしてもイスラエルは飲み水が貴重だった。

 その貴重な水で喉を潤してから、テルアビブヘ向かう事になったが、時間に余裕があるなら、ベエルシバを見て行きたいとの申し出が通って、ネゲブ砂漠からアラドを通ってベドウィンのテントを通過し、砂漠の中の町ベエルシバを見たが、ベドウィンも町を形成して定住生活が定着しつつあるとのことだった。ベングリオン大学などを車の中から見た。その町のはずれのセルフサービスの食堂で昼食を取った。そこから北上してテルアビブを目指した。テルアビブ手前のヤッフォーでその港を見ながら、ここは、旧約聖書に登場する預言者ヨナが船出した港だった。リマさんのガイドによれば、ノアもこの港町に住んでいた。そのノアの三人の予供の一人、ヤフェトがこの町の名の根拠だどいう。小林司祭は頭をかしげて、納得しかねている様子だった。その港を見下ろす小高い所が公園になっており、最近出来たという彫刻が施された「シオンの門」が立っていた。シオニズムでイスラエルへ帰還した人々はここから上陸してエルサレム(シオン)を目指したのてここはシオンの門だと云うのだろうと、小林司祭がリマさんの説明を補足して教えてくれた。この門の彫刻には、上部はエリコの城壁を崩した祭司たちの行列がある。出エジプトした人々にとってはエリコもシオンの門だった。そして片方には父祖アブラハムのイサク奉献。もう一方にはヤコブの梯子。イサクの代わりに棒げられた羊も彫られていた。わたしは未年のためかその羊が気に人ったので、小林司祭にお願いして、その羊と記念写真を撮って貰った。そして近くにあるカトリックの教会である聖ペテロ教会を訪れたのち、テルアビブの市内を車で観光しながら、グランドホテルで泊る荒島さんと、四日間ガイドしてくれたリマさんも降ろして別れを告げた。運転手のツビーさんは私達二人をベングリオン空港まで連れて行ってくれた。空港に着いたのは午後五時項だった。

 空港のロビーは人の波で混雑していた。セキュリティチェックは七時半からなので時間がたっぷりあるからベンチで座って待とうということで二人並んで座っていた。この人達はタイへ帰る人たちだと、小林司祭が教えてくれた。それにしてもその人たちの数が多いので驚いた。しかも彼らが乗る飛行機は私たちよりも二時間も遅い十二時三○分なのに、どうしたことかと、小林司祭がしきりに不思議がっていた。時問が大分経過したころ、私たちのセキユリティチェックの場所が気になり出した。小林司祭が探しに行ったり来たりして落ち着けない様子だった。わたしは文字が読めないので半ば諦めてはいたが気にはなっていた。大韓航空は別なところで行列が出来るから七時半まで待っていればいいそうだと、小林司祭が確認してベンチへ戻って来た。漸くその時間が来たので並んだところ私たちは四、五番という早い順番だった。「これなら文句無く乗れるだろう」と安堵した小林司祭が話していた。実際にセキュリティチェックは一時間後にはじまって、小林司祭とわたしの関係とか、何回イスラエルへ来たのかなど、係官と小林司祭との会話のやリ取りが暫く続いた。これまでの経験を生かして、旅行中の日程表からホテルや買い物の領収証など用意していたものが証明になったようで、二人の荷物は全く開くことなく、レントゲン検査だけでパスした。チェックインでわたしのために喫煙席を予約してくれていた。

 そしてこれならおみやげを買う時間が十分あると思っていたが、わたしたちの前の人が出国手続きなどで手間取っていたために、搭乗時間まで一○分しか無くなってしまった。しかし、この飛行機に乗るのは五○人とのこと、最新鋭のジャンボ機三九二人乗りに乗って、スチユワーデスも一○人位いるだろうから、これで採算が取れるのだろうかと心配せずにはおれなかった。これからソウル空港まで九時間五○分。往きが十一時間半だったからやはりジェット気流の関係だろうか。わたしは機内で食事を取った後、中央の四人掛けの肘付きをあげて、足を伸ばしてゆったりとした気分で睡眠に人った。しかし、小林司祭はいつものようにメモを取っていたようだ。

 四月八日(火)ソウル、福岡へ

 ジャンボ機の中で日付が替わった。行くときは一日儲けた気になったが帰りには一日損をしたような変な気持ちだつた。小林司祭は映画を二本見てうつらうつらしている間に夜が明けソウルに着いてしまったという。ソウルでは四時間の待ち時間があったので、ベングリオン空港では時問が無くて買えなかったみやげものを買うことにした。先ず、真夜中に電話して迷惑をかけた教区センターの管理人さんにキムチを買った。コンピュータの松本先生にはご希望のタバコを買ってから、軽食を取った。小林司祭はうどん、わたしはホットドッグを食べた。福岡行きの飛行機には、下関の青年がたまたま私たちの横に席を取って座った。小林司祭が話しかけて色々聞いていた。彼はイスラエルからの飛行機に乗っていて、彼の方が私たちに気付いていたとのこと。彼はイスラエルを二十日間、一泊千円位の宿に泊って回ったという。四日間ツアーを共にした荒島さんにしてもこの下関の青年にしてもクリスチャンでもないのにイスラエルに関心を特つ青年が居ることに、小林司祭は驚いていた。勿論わたしも感心した。その青年ど旅行の話をしているうちに福岡空港へ着陸した。九日目の帰国だった。日本の入国や税関はスムースにパスして、タクシーで教区センターに向かった。すっかり日は暮れていた。教区の宿泊所で早速荷物を分けてから、就寝の準備をし、この度のイスラエルの旅が無事に終了しことに感謝して祈りを棒げた。

 そして、翌早朝、小林司祭と別れ、高速バスで恵楓園に無事戻って来た。丁度十日間のイスラエルの旅も祝福のうちに終了した。感謝!-おはりー この次のページに「聖地巡礼のうらはなし ~太田先生は普通じゃない~」がありますので、併せてお読みください!


9「聖地巡礼のうらばなし」~太田先生は普通じゃない~
日本聖公会大分聖公会牧師・司祭 小 林 史 明


 聖主のご降誕をお祝いいたします。

 私は、熊本の菊池黎明教会を以前管理しておリました、日本聖公会の司祭小林史明です。今春太田先生と一緒に聖地旅行に行ったのですが、その時のことを、毎回MOL広報で読ませていただき、いろんな出来事を思い出しては、苦笑いをしたり、恥ずかしくなったりしています。

 聖地旅行の意義については、何人もの人が語ったり、書物に著したりしていますから、私が改めて言うのは二番煎じになってしまうと思いますが、あえて言わせていたださますと、それはイエス様を身近に感じるための人間の側の努力だと思います。聖書に出てくるイエス様と私たちとの間には、二○○○年という時間の隔たりと、イスラエルと日本という空間の隔たりがあります。タイムマシンを持っていない私たちには、時間の隔たりは、どうしようもありません。しかし、交通機関の発達によって、空間の隔たりの方は、克服できるようになりました。ィエス様の歩いた土地に立ち、同じ視点から世界を見た時、聖書の場面が立体的に浮かんでくるのです。そして、イエス様が身近な存在に感じられるのです。

 聖地巡礼の記を連載された太田先生から「同行者として、一回文章を書け」といわれて、今改めて、八ヶ月前に行った旅行や前後のことを思い返しています。

 【私のこと】

 太田先生の文章の中にも出てきましたが、私は一九八六年と一九八八年、聖地旅行のツアーに参加して、イスラエルの「名所」は、ほとんど見たつもりでした。そして一九九○年に二ケ月エルサレムに滞在していたので、市内はあちこら歩いて、もうイスラエル通のつもりだったのです。二ケ月居たときには、着いた翌日から湾岸危機が始まったので、「もうしばらくはイスラエルに行くのはやめておこう。」と七年ほどブランクができましたけど、太田先生が「聖地旅行に行きたい」と言われるので、「そんなことなら、いつでも一緒に連れて行ってあげるよ」と軽い気持ちで答えていたのです。

【太田先生は普通じゃない】

 ところが、具体的に聖地旅行の計画を始めると、私など思いもつかないようなことを考えていて、安請け合いしてしまったなあ、と行く前から反省させられてしまいました。太田先生の希望は①エルサレムの城壁を歩さたい。②復活したイエス様と弟子たちが出会った「エマオ」という村に行きたい。(そこで聖餐式をしたい、という願望は、帰って来てから私には判ったことで、あまり私の頭には入っていなかった。)③しかも、もう一○年以上も前に読んだカトリックの司祭の聖地旅行の本に書いてあった「聖地旅行は、1週間で、三○万円もあれば、ほとんどイスラエルは見て回れる」という記事を堅く信じていて、「安い旅行になるように、努力してくれ。」との要求。その上、「俺はコンピュータを使っているので、ホームページに取り込める、画像のいいデジタルビデオがあったらいいなぁ。」とのこと。買うのは誰だと思っているんだ、と少々頭に来たこともありましたが、太田先生がせっかく行くんだから、できるだけ望みをかなえなければと、今年の一月位から準備の資料集めなどを始めました。①の城壁は、二ヶ月滞在した時など、下を通るだけで、まさかあの上を歩こうなんて、考えたこともなかったのです。しかし、こちらの方は、最近のイスラエルのガイドプックに載っていたので、何とかなりそうに思えました。ところが、その結果は、連載の(3)にあるとおり、私は地獄を二度見ることになったのです。そして、②のエマオの方は、ガイドブックにもほどんど出てこないので、聖書考古学の本を頼りに準備し、時間を有効に使うには、小回りのきくタクシーを少々割高でもチャーターするしかないだろう、ということになったのです。これは連載の(4)に詳しく書かれています。日本語と現地の言葉の違いや私の準備不足のため、目的の三個所には行けたけれど、太田先生の願いをかなえられなかったのでした。③旅行全体の費用に関しては、普通聖地旅行のツアーでは、四○万円位はかかるのに、安くしろ、と言われて少々困りました。健常者で、少々の距離なら歩いたり、バスを使うのを苦にしない人なら、本のカトリックの司祭のように安く行けるかもしれませんが、長い距離は歩けないだろうし、飛行機も長時間は耐えられない、何回も乗りかえる南回りは嫌だろうし、などと考えていたのですが、幸い、昨年から大韓航空が、週一便ソウルからテルアビブまで直行便を飛ばしていることを知り、航空券の方は問題解決でした。三年前、私は大韓航空でイギリスまで行った時、九州からとても便利であることを知っていたので、これなら太田先生もあまり疲れずに、しかも安く行けるだろう、と思いました。実際、航空券は十一万五千円で購入でさました。そして、イスラエル国内の日本語ツアーも、九万九千円で済み、後は余分に泊まる宿泊費と自由行動のための小遣いなどですから、結果的には三○万円くらいで済んだのでした。ただ、旅行の不満を言えば、「日本語ツアー」というのが、ちょっとクセもので、日本人がガイドをするわけではなくて、日本語を話すユダヤ人だった点が私にはおもしろくありませんでした。太田先生は美人のガイドさんだった、と喜んでおられましたが、やはり日本人の感性でいろいろ語ってくれた、以前の二回のツアーのガイドさんに比べたら、こちらからもっと突っ込んだ質間がしたかったのに、という不満が残りました。

【旅行をして気づいたこと】

 太田先生とは、ここ一○年以上の付さ合いで、お互い気心は知れている、と思っていたのですが、今回のように一○日間も行動を共にしたのは始めてでした。私は自分で言うのもおかしいですが、割と入には親切な人間だと、思っていました。ところが、毎日三度の食事を共にして、そのほとんどがバイキング形式のため、私は太田先生の食事と自分のと、2倍の仕事をしなければならないのです。普段ひとり暮らしをしていて、たまにお客さんがあれば、サービス精神を発揮していろいろおもてなしもできますが、これが何日も続くとたまったものではありません。特にエマオで、タクシードライバーと行き違いがあり、そのとばっちりで、太田先生の念願の聖餐式を行えなかった後など、本当に気まずい思いになりました。ただ、その時、「僕にもやりたいことがあるので、明日は自由行動の日にさせてくれ。」と私の方から申し出たのが、結果的にはよかったように思えました。太田先生は前日からの長距離歩行での脹脛の腫れを癒して、その翌日からのツアーに備えての休息になったし、私も七年前に行ったユダヤ教の専門書店で、最近の面白そうな本を買って来たい、という希望がかなったからです。ほとんど意識しなかったはずの、「障害者である太田先生の世話をするために私が奉仕しているんだ。」という気負いが私を苦しめ、また太田先生にも嫌な気持ちを起こさせたように思いました。同じ人間同士が、言いたいことを言い合って生活すればいいんだ、相手にできないことを自分が助けるんだ、と思い直したら、本当に気楽になれたのです。そして、私が失敗した時、しばしば太田先生が慰めてぐれたことを思うと、共に生活するというのも、意外と簡単なことではないか、と思いだしました。

【これからのこと】

 イスラエルからの帰りの飛行機の中で、今回の旅行を振り返って、「城壁は、あんなに狭くて、上り下りの多いものだとは思わなかった。」と太田先生が言うので、「全部があんな城壁ばかりじゃないですよ。イギリスで、カンタベリーやチチェスターの町の城壁を歩いたけど、土手みたいで、とても歩きやすかったですよ。次は、イギリスへ行くことにしますか。」と私は答えました。イスラエル通のつもりが、太田先生の普通じゃない希望によって、聖地を再認識させられた私は、二度行ったイギリスについても、また、太田先生を通して新しい発見ができるのではないか、と思っています。

~終わり~

実践報告(熊大にて)

熊本大学祭・黒髪キャンパスにおいて(2004.10.31.)
「いのちの電子メール」の実践報告を行った時の原稿です。

2004(平成16)年度の大学祭おめでとうございます。
 先程、紹介に与りました、太田國男、またの名を、インターネットの世界ではハンドルネームで"ひつじ"と言う者です。
 今回はこのような有名な熊本大学の大学祭の一大行事の中で、お話しする機会を与えられました事はわたしの生涯の中でも忘れ得ぬ名誉な出来事だと感激しています。
 先ずはお話を始めるに当って、関係者の皆様に心から感謝し、厚く御礼申し上げます。

 今回わたしに課せられた課題は「いのちの電子メール」~その実践報告~という事ですが、余り耳慣れないタイトルだと思います。先ずは、電子メールカウンセリング(メール相談)をするようになった経緯をお話しすることにいたします。続いて、その実践報告を致します。

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◆電子メール・カウンセリングへの経緯

 実は、わたしがコンピュータを始めたのは13年前、わたしが還暦を迎えた年でしたが、その後間もなくコンピュータのOSがウィンドゥズ95の出現と共に変化した機会に、インターネットに対する好奇心が高まり、国境の無いバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界に憧れ、ベーシックのハイパーテキストを半年程学んでホームページ作りに入り、遂に今から8年前の1996(平成8)年8月8日に「緑の牧場」と言う名のホームページを開設しました。当時は昨今のように便利なビルダー(ホームページ作成ソフト)はありませんでした。
 最初のホームページ「緑の牧場」をプロバイダーに登録した時は100枚程の僅かなファイルでしたが、その後はインデックスやコンテンツが面白いように作れるようになり、現在では2つのプロバイダーに50メガを超える領域を持ち、おおよそ3,000枚前後のファイルが登録されています。国境の無い世界、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を謳歌しています。
 そんな中で、色々な人々と出会いメール友達が沢山出来ました。中でも日本人でアメリカの女性と結婚して今はアメリカ国籍を持って、ボイセという所に住んでおられる林浩司さんとの出会いが今日のお話のきっかけとなります。
 林浩司さんは日本聖公会神学校を卒業され、日本でお知り合いになったアメリカ女性と結婚され、林さんの郷里である北海道・稚内で開拓伝道をされておりましたが、ご家庭のご事情でアメリカへ移住された方です。
 米国聖公会の教会で働いておられましたが、その傍らカウンセリングの勉強をされ、アメリカのCPSP(The College of Pastoral Supervision and Psychotherapy)のディプロメイト(Diplomate)となり、米国臨床牧会教育指導者、また会員ともなって、22年間、神学生、牧師、信徒教育の教育指導をして来られた方で、そのカウンセリング教育指導者としてのお働きを生業として来られた方でした。
 神学生時代には群馬県・草津の栗生楽泉園へ訪問したこともあり、ハンセン病に対するご理解もある方でした。そして、わたしより4歳年下で、年代的にも近くて親しみを覚えていました。電子メールの交換が重なるに従ってお互いに信頼関係も深まりました。
ある時、「わたしも日本聖公会の教役者で執事職ですが、臨床牧会カウンセリングの勉強はして来なかったので、プロのカウンセラーから教えて頂きたい」趣旨の電子メールを送りましたところ、快く受け止めて下さったので、電子メールを通じて通信教育を受けようとしましたが、"待てょ!? そうだ、わたし一人が受講するのでなく、他に希望者があればその人々と一緒に学ぼう! わたしがカウンセリング講座のホームページを作って希望者を募り、講師は林さんにお願いしよう"と思い立ちました。早速、その旨を林さんに相談を持ちかけてしました。
"ひつじさんが講座のためのホームページを作ってくれるなら、一緒にやろう!"と言う事になりました。
 早速、その準備段階として、まず「ふれあいの窓」と言う「ウェブ、心の悩み相談」を開設しました。カウンセラーは林浩司さん。ウェブ管理者としてわたしが担当すると言う、二人三脚で、「電子メール牧会カウンセリング」 (ふれあいの窓)を開始しました(1998.1.1.)。同時に、「電子メール臨床カウンセリング教育講座」開始に向けて、受講者の募集も開始しました。
 電子メールによる(通信教育の)「牧会カウンセリング臨床教育基礎講座」受講望者の募集はインターネット上で行い、またメーリングリストの仲間にも呼びかけました。その結果、8名の応募あったので、1998年4月1日から開講する事になった。
 当講座の学習方法とその目指すものは「経験者のアドバイスを受けながら、応用-実践して、カウンセリングを修得する、個人指導(ワン ツゥ ワン)方式」で、何時からでも受講する事が出来るようにしました。
従って,受講申込みを受けて、受講開始が決まってから一年間を受講期間としました。
 このカウンセリングコース(カリキュラム)は、当講座の講師(スーパーバイザー)である林浩司さんが過去に米国で行っていた[basic course=初心者コース]と同等の内容を持っているもので、終了後には「The College of Pastoral Supervision and Psychotherapy Inc.」(牧会作業に関する監督と精神治療の最高機関である米国のCPSP協会)公認の当講座修得証明書を個人に贈り、同協会の日本、支部会員になって頂く事を目指した。
 受講開始に当たっては、各自のメーラーのグループ設定を活用して、最初は林浩司さんをはじめ、8人の受講者の各メールアドレスを登録し、スモールグループの専用メーリングリストを運用し、当講座の学習ルームにしました。電子メールによる"通信教育"と言うシステムを経験した事がなかったために、運営上の混乱も生じた。しかし、スモールグループのご理解と協力により改善されていったことは幸いだった。運用上での混乱は各自のグループ設定や送信ミスなどさまざまだった。中でも林浩司さんの教育・指導内容がアメリカ式カウンセリングだとか、カウンセリングそのものの本質論や理解の違いが表面化したり、わが意にそぐわないと言って受講を取り止める人もいました。また、新規参入の受講者もあり、本講座の事務局も担当していたわたしは、その受講者の出入りに一喜一憂したり、さまざまな問題が発生した折々に、二人三脚ではじめた林浩司さんとは常に個人メールで意見交換しながら問題解消に意を注ぎました。そして、開講以来2年間は当講座の試練の時であり、成長への道のりでもあったと思います。
 その試練の2年間を乗り越えて、2000年3月11日~13日(2泊3日)、関西学院千刈キャンプ(研修センター)において、第一回「臨床カウンセリング教育集中講習会」を開催しました。参加者は、オブザーバーとして谷口泰三さん、講師の林浩司、受講者の長尾文雄、村田真理枝、井原美智代、小澤久美子、太田国男の7名でした。この時初めてお互いの顔と顔を会わせた初対面の時でもあった。(因みに、この時の「面接」のおり、講師の林浩司さんから"カウンセリングを学んで同のように活用しますか?"と、問われて、"いのちの電子メール"をしてみたいと言ったのが最初であった)。

 2001年2月9日~12日3泊4日間。関西学院千刈キャンプ(研修センター))において、第2回「臨床カウンセリング教育集中講習会」を開催しました。この講習会で、「CPSP日本支部」の結成・創立と同支部活動の一つとして3月より「いのちの電子メール」を開始する事になった。
「臨床牧会カウンセリング基礎講座」(1998年4月1日開講)は、「Small-Group」を作って継続して来たが、2001年2月末をもって終了し、CPSPのデプロメイトであり当講座のスーパーバイザーであった、林浩司師の署名入りで、3年間の講座修了証書が6人の受講者(長尾文雄、村田真理枝、井原美智代、小澤久美子。柳孝三郎、太田国男)に授与された。以後「CPSP日本支部」へ移行する事となりました。

2002年4月27日~29日(2泊3日)熊本・菊池恵楓園渓楓荘において、CPSP日本支部の発足後、第1回「臨床カウンセリング研修会」(CPSP日本支部総会)を開催した。当参加者は、林浩司、村田真理枝、井原美智代、太田国男4人でした。今回は4月28日(日)菊池黎明教会の献堂50周年記念礼拝説教者として、林浩司師が招かれた機会に熊本開催となった。この研修会で、2003年3月に開催予定のCPSP総会へ参加し、「CPSP日本支部」の活動報告とアメリカ研修旅行が提案されました。
 2003年3月21日~31日の10日間、CPSP総会への出席とアメリカ研修旅行を行いました。参加者は案内役の林浩司さんをはじめ、村田真理枝さん、井原美智代さん、柳孝三郎さん、オブザーバーとして柳多恵子さん、太田国男の一行6人でした。この時に、CPSP会長、フォイ、リッチ師から「臨床牧会教育証明書」(2003.03.27.)を授与された、会場では村田真理枝さんが会を代表して、CPSP日本支部の活動報告をいたしました。
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☆真理枝さんが英語でスピーチした、CPSP日本支部の活動報告をここでは邦文で紹介します。
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このグループでの経験、具体的にどんなことを学んだか、生の人間との交わりによって私達が何を学んだか、インターネットでのメールによる臨床カウンセリングの学びのスモールグループにおいて、私達メンバーは多くのことを学び、そして多くのことを分かちあってきました。
 まず、私達が学んだことは、私達は平等であるということです。私達が学ぶ上で一番の障害となったのは、スーパーバイザーであったKojiさんを含めたお互いが平等であるという感覚の欠如でした。
 日本においては上下関係というものが重視されます。いつでも自分が上下関係のどこに存在するのかを無意識の内に決定付けようとする意識が働きます。そのような習慣をぬぐいさることに多くの時間と対話を要しました。
スーパーバイザーとはどのような関係なのかを知ることが出来、今では私達も自由に彼に意見を述べる事が出来るようになっています。
 しかし、彼の日本語の文章は難解で、文法が英語のパターンであったり、単語が日本では馴染みのないものであったりで、時にはとても冷たく感じることもあり、日本語特有の言葉選びの難しさ、漢字の選択一つで相手の受け止め方が代わってくるといった事を彼との関わりで気付きました。
 第二に私達はお互いの御機嫌を伺わなければならない仲間ではなく、お互いを尊重できる、認めあえる関係となれる事を学んだ。
率直に意見を言うというのは、日本では良くないことという習慣があります。欧米では当然のことと思われることですが、このような些細なことすら、日本では学びの対象となります。
 メンバー間において、このようなことを言ったら嫌われるのではないか、こう言えば相手は喜ぶのではないか、といった関わり方を辞め、率直に気持ちを伝えることを通して、心を隠さない、相手の気持ちは相手の気持ちとして受けとめることを学び、そしてそのことがカウンセリングにおいても、率直にカウンセリーが答えられるように、また率直な答えを私達が受けとめられるようになる手助けとなりました。
 ある時には誤解を招いたり、相手をコントロールしようとしたりといった時期があり
ました。「こう思って欲しい」「こう思って欲しくない」と相手をコントロールしようとすることは、怒りや悲しみを生み、メンバーが抜けてしまう事件も起こりました。けれども一歩前進し、自分と相手との考え方は一致しなくてもかまわない。相手の思うことに対して、自分が腹が立つということは、自分の中に何らかの形で消化しきれていない不満、感情が怒らせていることに気付かされました。
 そして、自分の中にある問題点と向き合う時、相手がどのように自分を評価、または見つめようと、その相手に対して無駄な感情のエネルギーから開放される事を学びました。
 そしてメンバーのお互いの悩みや悲しみにふれあい、共感することを通してカウンセリーの気持ちにより添うことの重要性を学びました。
 それぞれのメンバーが抱えている怒り、悲しみ、悩み、苦しみを共有する事によって、多くの生きた体験に直に触れる事が出来ます。
いかに相手の気持ちに寄り添うことが出来るかーーー自分が寄り添ってもらう生きた体験を通して、これが大変重要であることを理解することが出来ました。
 第三に、私達は2001年3月よりインターネットによるメール相談を初め、2003年2月現在で、138件の相談を受けてきました。メール相談をお受けする条件として、通常は週に一回、4往復のメール交信で終了とするようカウンセリーと最初に約束を交わします。
自分がどこの誰なのかを明かすことなく相談が出来る。何処に居ても、誰でもどんな時間にでも相談ができるのがこのメール相談の窓口です。
 死と隣り合わせになったような相談もあれば、家族内のトラブル、健康診断の相談から中学生の恋の相談、またどの宗派の教会を選ぶべきかの相談まで様々です。きちんと自分の情況と思いを綴ってくるものもあれば、1,2行ほどの文章が書かれていて、その横に1時間以内に返事をくださいと書かれたものもありました。
 悩ませているものは何なのか焦点を絞ることが出来ず、カウンセリーに振り回されてしまうことがあったり、こちらの問いかけに応答してくれなかったり、まったく返事が来なくなったりすることが多々あります。そんな時に、グループでのコンサルテーションを通して新たな気付きを与えらることはとても助けられます。
 このメール相談の取り組みを通して学んできたことは、聴くことの重要性、特に話の内容に囚われず、相手の感情に耳を傾けることの大切さです。
 学ぶ前は『アドバイス』こそがカウンセリーの求めているものであり、それを与えることが重要だと思っていましたが、最も必要なのはアドバイスではなく、まずは相手の訴えることに耳を傾けることであることが第一歩でした。
 そして相手がどのような感情を抱いているのかに耳を傾けることの大切さを知り、表面に浮かんできているものだけでなく、カウンセリーの心を縛っている様々な感情と見つめ合えるように、自分の思い込みにならないよう、フィードバックを怠らないように、進めていく大切さを学びました。
 また、メールによる相談を始めてみて、カウンセリーが自ら答えを見つけていくのを目の当たりにする体験を通して、カウンセリーの持つ力、可能性を知ることが出来ました。このことは、私達自身にも、それぞれにとってのすばらしい力が備わっていることへの自覚にも繋がるものでした。
 私達は今までに学んできた体験を糧として、それぞれが生きた体験を通して、ベストワンではなくオンリーワンを目指しながら、今後は仲間を増やし、新たな学びへと役割を担っていく新たな出発の時でもあります。
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☆臨床牧会教育証明書
牧会教育スーパーヴィジョン及び精神治療専門学会(CPSP)ロッキーマウンテン地区デプロメイト
臨床牧会教育 証明書授与
 貴方が三年の期間を通じ、電子メールによる臨床牧会教育コースを経験し、終了されました事を認め、CPSPの臨床牧会教育の証明書を授与致します。

 電子メールによる臨床牧会教育の単位は、三年間牧会配慮と支援とカウンセリングを学習する過程で、長期間の学習及び研究、牧会訪問の監督、貴方とグループ各自の関係を学び、築き上げる活動等を、誠意と忠実さを持ち努力された事を意味致します。貴方の努力は、ACPE(全米臨床牧会教育協議会)、CPSP(牧会教育監督及び精神治療専門学会) の臨床牧会教育スーパーバイザーである林浩司牧師/司祭との協同の開拓精神に満ちたものです。
 コロラド州デンバー市、CPSPロッキーマウンテン地区のデプロメイト一同は大きな尊敬と感謝の念で、貴方のこの輝かしい成果を共に喜ぶものであります。新分野開発モデルである、インターネットを応用しての神学教育専門課程の意義ある臨床牧会教育の達成は、インターネットによる神学教育や臨床牧会教育の将来の国際関係学術交流の新しい見本であります。

 敬愛と感謝の気持で、CPSPのアメリカの学会会員は、貴方のこの素晴らしい業績達成を確認、著名致します。

CPSP会長・フォイ、リッチー牧師
CPSPスーパーバイザー・
林浩司 司祭/牧師
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 2003年10月11日~13日、六甲山YMCA・研修所において、第2回「臨床カウンセリング研修会」(CPSP日本支部総会)を開催。出席者は、長尾文雄、村田真理枝、井原美智代、柳幸三郎、太田国男の5人。今回はCPSP日本支部の運営と活動内容・在り方について話し合われた。メーリング内でのスーパービジョンを実施する事を申し合わせた。
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☆CPSP日本支部 メンバー構成員
Kojiさん
(林浩司 コンサルタント)
Bunさん
(長尾文雄 コーディネーター)
Marieさん
(村田真理枝(医療)ボランティア)
Michiyoさん
(井原美智代(留学)ボランティア)
Kouzaburouさん
(柳孝三郎(牧師)ボランティア)
亜希子さん
(花田亜希子(医師)ボランティア)
ひつじさん
(太田国男(元牧師) ボランティア)
Dr.町田さん
(町田宏(医師)協力者)
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[CPSP日本支部]とは、 2001年3月1日に発足しました。ウェブ「ふれあいの窓」で行っています「牧会カウンセリング臨床教育講座」で、その学習を修了した人々によって結成された、カウンセリング・グループです。
 その支部活動は年に2回以上のスーパービジョンと、いのちのeメールのメール相談を受けることであり、それらを通じて、カウンセラーとしての資質向上を図ることが本支部の目指すものです。
 「CPSP」は、アメリカのカウンセリング協会:The College of Pastoral Supervision and Psychotherapy のことです。
【支部の目的】本支部は、年2回以上グループによるコンサルテーションを実施することと、「いのちのe(電子)メール」 でメール相談を受けることをとおして、カウンセリング(聴く技能)の向上を図ることを目的とする。
【支部の活動】メンバーによるコンサルテーションの実施。 「いのちのe(電子)メール」のカウンセリング・ボランティアとして「メール相談」活動を行う。 「ふれあいの窓」のカウンセラー・スタッフ(長尾文雄)の指名を受けて「相談の窓」のクライエントを担当する場合もある。


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◆メールカウンセリングの実践報告
"いのちの電話"があるように「いのちの電子メール」というものがあってもよいのではないか、という率直な発想からこの「いのちの電子メール」が生まれた。
 素朴な発想に基づいて、「ふれあいの窓」の「牧会カウンセリング臨床教育講座」の講習(1997開講~2001閉講)を修了した、カウンセリング・ボランティアのご協力によって「メール相談」を受けることになった。勿論、このカウンセリング・ボランティアは「ふれあいの窓」のカウンセラー・スタッフが支援しています。
 この「メール相談(メール・カウンセリング)」は、2001年4月に第1号をお受けしてから3年後の2004年9月30日まで、44ヶ月間に214件の{メール相談}をお受けしました。一ヶ月平均約5件(4.86件)という、決して多い件数ではありませんが、一人のボランティアが複数の相談に応じることもしばしばです。
 2004年9月現在、4人のランティアが常時順番に当たっている。しかし、メール相談が集中するときが時々あって、多いと時には一人で複数抱える事がしばしばある。2人のカウンセラースタッフも加勢する事になり過密時の解消につながるだろう。
【厳禁】この「メール相談」では、商用的な相談をはじめ、個人や団体を誹謗・中傷するご相談、仲介相談には応じません。
【メール相談要綱】この[メール相談]は無料ですが、応答期間は約1ヶ月間とし、その間4、5回の応答(交信)に留める事を原則とします。その予定期間を超える場合は、その折りに改めてご相談に応じます。勿論、メール相談内容はコンフィデンシャルを厳守致します。
 尚、相談に際しては(1)件名には[メール相談]と書いて下さい。(2)お名前(ハンドルネームでも可。(3)性別・年齢・職業・家族構成。(4)あなたご自身のメールアドレス。(5)ご相談内容。以上の5項目は必須項目です。いずれも解り易く書いてから「送信」ボタンを押してください。☆必須5項目を省略したり、不明瞭な内容の場合はお断りする事もあります。
 最近は相談者が多くなり、込み合って応答が遅れる事もしばしばありますので予めご了承下さい。 皆さんの「メール相談」の応答には下記の"カウンセリング・ボランティア"の方々の中から、どなたかお一人が当たられます。どなたが担当されるかは当方で決めさせて頂きますので、その点もご了承ください。
(HP「いのちの電子メール」のプレゼンテーションより)

 この「CPSP日本支部」がグループの電子メールカウンセリングを支援するために、またその資質向上を目指して、運用しているメーリングリストはこの約3年半に記録した交信数は、2,150通を数えた。1日平均1通~2通が配信されていることになります。勿論、私信・個人メールでもサポート・連絡事項などしますからそれらの交信を含めると、凡そ4,000通を遥かに超える。

「メール相談」受付 年齢別表
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男性%…年台…女性%
------------------------------
%…50… 5%
2%…40… 3%
4%…30…26%
4%…20…17%
3%…10… 8%
9%…不明…19%
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22%…合計…78%
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 この表は9月末の214号から113件までの100件の年齢別表です。この表によってお分かりいただけると思いますが、男女別では男性22人、女性78人と圧倒的に女性のカウンせりーが多いことでしょう。しかも30歳代が26人、20歳代が17人で、全体の43パーセントを女性が占めています。
 そして、この年代が抱えているさまざまな問題がメールカウンセリングとして入ってきます。結婚・離婚・恋愛・不倫はもとより、依存症、うつ病、過食・虚飾症など枚挙のいとまがないほどです。それらの相談内容は「秘密厳守」なのでここに例として挙げることをひかえます。
 先の女性と同じ年齢層で、男性の場合は対人関係に関する内容が多く見られます。ことに職場でのトラブルに関するものが目立ちました。勿論男女関係の問題もあります。
 10歳代の場合は全体の約一割を越えている。女性の場合は、家族関係、過食・虚飾症やリストカットや自殺願望の悩みが目立ち、男性の場合はこの世に対する不満や将来に対する不安、自殺願望などです。
 50歳代の女性の場合は、子供の受験や就職などを気遣う母親の悩みが多かった。

「いのちの電子メール」に寄せる
~わたしの想い~

 わたしの熱い想いを託している「いのちの電子メール」を実現できたのはインターネットの世界、仮想現実の世界だったからだと思っています。しかし、仮想現実を実現した喜びは大きい。この世に在っては何一つ作り出す事が出なかっただけにその喜びは隠し切れない。その「いのちの電子メール」に寄せるわたしの想いを紹介してこの稿の纏めにしたいと思います。
 人はすべて等しい存在だと言われていますが、人の何が等しいのでしょうか。と言う素朴な疑問について、わたしの理解からお話したいと思います。その素朴な疑問は考えるまでもなく、人の「いのち」そのものが等しいのだと思います。人のいのちは人の存在そのものを意味しています。そしてよく聴きなれた言葉ですが「人のいのちは地球よりも重い」し、何よりも尊い存在であります。
 ハンセン病を患ったからとて、その「いのち」が軽んじられていいのでしょうか。否!です。その事をはっきり言えるようになってから、わたしはハンセン病を患ったことによるわが身の後遺症を克服する事が出来ました。それまでは、自分の後遺症、殊に顔面の後遺症が恥かしく惨めに思えてなりませんでした。今では、人から"あの顔で恥かしくもなく、日本中あっちこっち、よく行くもんだ"とか、また外国旅行した事が知れると今度は"日本国内ならまだしも、あの顔で外国にまで行って辱をさらしてくるとは…"と噂するあきれ声がわたしの耳にまで届いても、さほど驚かなくなりました。何故なら、人のいのちは人の風貌によって左右するものではないという信念を抱いているからです。しかし、一気にそのような信念に到達したわけではなく、薄皮を一枚々々剥ぐようにして到達し得た信念です。
 傾聴カウンセリングを学習する中で、いのちのダイナミックな経験がわたしを生かしており、またカウンセリーの悩みを受け止める力量になっていることを知りました。
 2001年5月11日の、ハンセン病国賠訴訟の熊本地裁の判決は謂われなき偏見と差別を断罪し、ハンセン病を患った人々の人権を取り戻し、人間回復の扉を開いてくれました。そのことにより、先の"人のいのちは人の風貌によって左右するものではない"という信念が深められた事も事実です。
 ところで、わたしが「いのちの電子メール」と言うことを始めて口にしたのは、カウンセリングの学習を始めてから2年後の2000年3月に開催した第一回目の集中講義を受けた時、講師との「面接」の中で、カウンセリングを学んで何かしたい事があるか質問されたときに、日本には「いのちの電話」と言うものがあって、今では半ば公共的な存在になっているから、この講座で学んだ人たちによって、「いのちの電子メール」のような事をはじめたらどうか、と考えている事を話したのが最初だった。その次の第2回目の集中講義が開催されたとき(2001年2月開催)、その運用が具体的になった(その「いのちの電子メール」の実践報告は、先にお話したCPSP総会でグループを代表して行ったスピーチ(実践報告)を参照していただきたい)。
 わたしは、この「いのちの電子メール」を通じて学ばんだ一つに、人の悩みはその内容こそ異なりさまざまである。けれども人の心の「悩み」そのものは重い存在であると言う事でした。すなわち、わたしはハンレセン病を患ったゆえに生じるさまざまな「悩み」が一番深刻で苦渋に満ちた、筆舌に尽くせないものだと思っていました。しかし、メール相談に来るカウンセリーの悩みもそのカウンセリーにとっては深刻で苦渋に耐え切れなくなってのカウンセリングであることを知りました。そしてその悩みに何処まで深く共感し、双方の信頼関係を深めながら、悩みの解消へと進められるかが、メール相談の課題でもあると思いました。カウンセリーの悩みに共感するためには、カウンセラー自身のダ
イナミックな経験が大切な役割を演じていることを稲担っている事も学ばされました。人の悩みの重さを量ることはできない事を痛感した。
 こうしてわたしは見えない「心の壁」を乗り越える事が出来たと同時に、人間回復を取り戻す事が出来たと信じています。
 インターネットの世界にも「心の悩み」を持っている人々が大勢おられます。心の悩み相談に応じてくれる人(電子メールカウンセラー)を待っていると思います。
 現在わたしたちのように、小さなカウンセリング協会がほんの僅かなボランティアによって行っている「いのちの電子メール」~心の悩み相談~が拡大して、「いのちの電話」の様に公共的な存在になることを期待しています。
 インターネットの検索していただいたら、沢山のカウンセリング関係のサイトが表示されて、こんなにも沢山あるのかと驚かれる事でしょう。
 しかし、主にカウンセリングを学ぶための専門教育と資格取得のためのカウンセリング協会や有料の「メールカウンセリング」のサイトに出会う事でしょう。
 わたしたちが行っているような無料の「いのちの電子メール」は。キリスト教会で牧師さんが一人で行っているサイトが一つあります。わたしたちとほぼ同じ時期に同じような素朴な発想からはじめられたようです。
 先の牧師さんのように、またカウンセリングの資格を持っておられる方なら直ぐにでも始められます。また、そうした志を持っている方が協力すれば容易にはじけられると思います。
 今日この話をお聞き下さった方々の中から、第二、第三の「いのちの電子メール」が、熊本「いのちの電子メール」が生まれることを熱い想いを持って期待しつつも、その必要性うまく伝えられなかった貧しい話を、最後までお聞き頂きくださった皆様に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

住所=熊本県菊池郡合志町栄3796
   菊池恵楓園内 天草寮1号7番
          太 田 國 男
電話番号=096-248-437


【参考資料】
~わたしが運用している主なHPの紹介~
☆「緑の牧場」メインページ
http://www.try-net.or.jp/~k-ohta/
☆{かえで共和国}
http://www.try-net.or.jp/~k-ohta/kaedekyo/
☆「ふれあいの窓」~心の悩み相談~
http://www7.ocn.ne.jp/~sgroupx/
☆「CPSP日本支部」
http://www7.ocn.ne.jp/~sgroupx/cpsp/
☆「いのちの電子メール」~心の悩み相談~
http://www7.ocn.ne.jp/~sgroupx/inochi/index.html

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