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5.海外旅行で

 イスラエルの旅行記は以前発表した事があるので、今回はエジプト旅行のみにした。この項では、これまでに海外旅行した後日談的な事柄を書くことにした。因みに、海外旅行したのは五回で、一九八七(昭和六二)年一〇月(八日間)、韓国ツアー・定着村問安旅行が最初だった。次に一九九七(平成九)年四月(一〇日間)、イスラエル巡礼旅行。二〇〇三(平成十五)年三月(一〇日間)、アメリカ横断、カウンセリングの研修旅行。二〇〇四(平成十六)年五月(一〇日間)、イタリアのアッシジへ巡礼旅行。そして二〇〇六(平成十八)年三月(十一日間)、シナイ山とイスラエルの旅だった。
 十九年前の韓国ツアーはJLM(日本ハンセン病者救済社法人)が企画したツアーで、全国のハンセン病療養所のクリスチャンを対象に募集され、韓国のハンセン病療養所から社会復帰した人々が集まって形成された部落(定着村)を問安するツアーだった。従って、余り気兼ねなく旅が出来た。韓国での入国検問は、わたしがハンセン病で後遺症を持っているためか、わたしの荷物は手も触れず開けることは無かった。わたしは嫌な感じを受けたが、嫌な感じを受けたのは検問の係官だったかも知れない、と苦笑いした。食べ物で記憶残ったのは「ビビンバ」だった。一〇年後のイスラエルへの旅で機内食に「ビビンバ」が出たが本物にはおよそ及ばなかった。
 一九九七年にイスラエルへ行ったときの検問でも経験したが、飛行場の入国検問所ではあっちこっちで旅行ケースや手荷物を片っ端から開けさせて検査している。そんな中でわたしたちの番が来て、小林司祭が英語で荷物の中身の説明をしていた。その傍にわたしも立っていた。検問の係官が時折わたしの方へ視線を向けていたが、遂に、二人の荷物を開けさせることはなかった。難なく通過できたことも印象に残った。しかし、小林司祭が一人でイスラエルの旅をした時は結構手間がかかったといっていた。そのことを考え合わせると、この係官もハンセン病者の荷物に触れる事をおそれたのかも知れないと思った。
 一九九七年のイスラエルの旅では、飛行機の機内では喫煙席があったが、その後の飛行機の機内では全席禁煙になった。飛行場の構内でも喫煙コーナー以外では禁煙になっていた。しかもアメリカではホテルでも禁煙になっていた。しかし、イスラエルやイタリア、カイロなどではベットルームには灰皿が置いてあった。アメリカへ行った時には、成田空港を出発して成田に帰るまでの約一〇日間に8本しか吸えなかった。そんなに我慢できたのなら、いっその事、その機会にタバコを止めればよかったのに、と冷やかされたことが、今では語り草になった。
 わたしがよく外出することを知っている人たちの中には、「あの顔でよく出かけるもんだ。恥ずかしくないのか!?」と噂する人が居るようだ。また中には「日本国内だけでなくあの顔で外国へ行ってまで恥をかきに行くなんて!?」と噂する人も居る始末。そのことは直接わたしの耳に入った訳ではない。極親しい人、確かな筋から伝え聞いたことだ。以前なら、直接わたしが耳にしたら「旅行は顔でするもんではない。」と言い返していたかも知れない。しかし、今のわたしには、そんな事を言い返す気持ちはない。
 なぜなら、わたしは毎朝の洗顔の折に自分の顔を見ていて、自分がどんな顔をしているかを誰よりもよく知っている。以前は自分の顔が醜くて自分の顔を自ら差別していたが、この醜い顔は病気のためでその他の誰のせいでもないことが分かった。その醜い顔の現実を受け止め、受け入れてから、醜い自分の顔がかえっていとおしくなった。そして、誰の心にも「差別心」があることも分かるようになった。わたしは思う。先ず、自分自身の中に在る「差別心」を自ら克服することなくして、人に向かって「差別を無くそう!」とはいえない。
 ある人が「この世の差別は人の数ほどある」と喝破した。差別心は例外なく誰の心の中にも潜んでおり、常にスタンバイ状態だ。だから一寸したことにも反応し、人を差別する行為に走り易い。だから、何時まで経ってもこの世の中に差別はなくならない。人の差別がはじまりで、遂には争いや戦争にまで発展すると言っても過言ではない。この世から「差別」を無くさなければ「平和」は望めない。差別心は心の問題だからこそ難しい課題だ。
 最後にこのことに気付いた人から「己の差別心を克服すること」を願ってこの度の旅行記を終わる。
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4.シナイ山

 第三日目(二十三日)。二泊したカイロのホテルを出発した。今日と明日は、エジプトの奴隷として苦役を強いられていたイスラエルの民を解放したモーセがその民を率いて紅海を渡りシナイ半島に入り、シナイ山で神から「十戒」を授かり、そこから約束の地に入るまでの約四〇年間に渉り彷徨う道程を辿るコースである。今回のツアーにわたしが参加した主な目的はそこにあった。勿論初めてのコースでもあった。
洋画「十戒」の舞台でもあり、そのクライマックスでもある紅海渡渉の場面。紅海が二つに割れるところをどのように撮影されたのかという好奇心も手伝って、群馬県・草津の療養所から東京までわざわざ出かけていった時のことなどを思い起こしながら、シナイ半島に向かった。モーセに率いられて渡った場所は推定の域を出ない。現在のスエズ運河の比較的南の方であろうと言われているが、それも定かでない。いずれにしてもその辺りのスエズ運河の下をトンネルが通っており、あっけなくシナイ半島に入った。砂漠地帯を暫く走ったところに「モーセの泉」と伝えられているところがあり、バスから降りてその泉の中を覗いたら水は涸れて砂で埋まっていた。そのモーセの泉の周囲にはナツメヤシがまばらに生えていた。この辺りには地下水が通っているのだろうと思った。
 このモーセの泉にまつわる聖書の記述は、出エジプト記第十五章二十二節以下にある「ラマの苦い水」の記述。海を渡って荒れ野を三日進んでから、やっと水を発見したが苦くて呑めなかった。そこで〈民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った〉。すると主がモーセにお示しになった「一本の木」を投げ込むと「水は甘くなった」。また、出エジプト記第十七章の「岩からほとばしる水」の記述によれば、民は水のことでモーセと争ったり、主を試した時、ナイル川を打った杖で岩を打ったら水が出た、というメリバの場面を思い浮かべながら、ナツメヤシの茂るレピデムを経てシナイ山麓に在るホテルに着いた。
 シナイ山麓のホテルは山荘風で麓の丘を覆うように点在していて、比較的高いところの一室に泊まる事になった。部屋に荷を下ろしてベランダに出たところ、真っ赤な夕焼けに映えたシナイ山の荘厳な雄姿が真正面に聳えていて感動した。そこで見たシナイ山は洋画の「十戒」のロケに使われて有名になった山、格好いい美しい夕焼け姿の山だった。早速小林司祭にお願いして動画でカメラに収めた。
 翌早朝(午前二時)から、希望者のみでのシナイ登山。このシナイ山はカメラに収めた山とは別のシナイ山だった。聖書の物語でモーセが登って神の声を聞いたシナイ山だと伝えられている山も、また確かではない。このシナイ半島には「シナイ山」と呼ばれている山はほかに幾つも在るそうだ。
 このシナイ登山にはわたしは参加せず、休息を兼ね山荘で一人寝ていた。小林司祭とT姉はわたしが知らないうちに起きて参加した。登山から帰って来た小林司祭は、帰る早々"やぁー疲れた!"と嘆息しながら、若いときに登ったがこんなに疲れたとは思わなかったと呼吸を弾ませていた。T姉も大変だったと登山の感想を語っていた。登山組が皆下山してからホテルで朝食を摂った。
 ところで、この項に入ってから、丁度、モーセに率いられたイスラエルの民が四〇年間もシナイ半島で彷徨ったように、執筆が思うようにはかどらなかった。そのわけは、主に目の調子が悪かったことが大きな原因だった。イスラエルの民がエジプトでの奴隷生活から足を洗って、約束の地へ向かうに先だってシナイ山麓に集結し、神から「十戒」を賜ったという、その偉大な出来事が語るメッセージの意味を、容易に読み取れなかった事も執筆を滞らせていたと思う。
 イスラエルの民への「十戒」授与は、神とイスラエルの民との契約の証であり、神の見守りと約束の地を得る保証(掟)でもあった。その「掟」は単にイスラエル民にとどまらず、すべての民族にも示された「掟」の原点のように思う。そのような「掟」に相当する「法律・憲法」は、どのような民族・国家・運命共同体にも潜在的に存在している。それによって、団体・集団にもその集まりを纏めるための会則なり規約なりがあってその運営を円滑にする事が出来るのだ。
 シナイ山での「十戒」授与はイスラエルの民を結集し「運命共同体」を形成した「偉大な掟」を象徴するシナイ山の魅力に心惹かれながら、アカバ湾沿いを通って、タバの国境越があり、此処でシナイ半島の旅を終えていよいよイスラエル国に入った。そして一路、死海沿岸のホテルに向かった。

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3.スフィンクスの前で

 三月二十日(月)朝食後成田に向けて家を出た。T姉が用意して下さった車で高速バス停(西合志)まで送っていただいた。そこからT姉の介助よろしく福岡空港に行き、成田空港へ行った。成田空港のホテルで夕食を摂り、同部屋になる小林司祭を待った。T姉は相部屋になるお友達を待った。予定より早くに相部屋の小林司祭が到着して、翌朝出発時の手順を確認してからそれぞれベッドに就いた。
 翌二十一日(火)午前九時、成田空港第一ターミナル集合。ここから十一日間の「シナイ山・イスラエルの旅」ツアーが始まる。このツアーの参加者は十四名、その他に添乗員が一人加わって十五名の一行である。指定の場所に勢揃いした一行は円陣を作り、添乗員からこれからの手順が告げられた後、参加者一人々々が出身地と簡単な身分を紹介した。北は北海道から南はわたしたち熊本組まで、日本列島を網羅?している感があった。その場ではじめてわたしの存在を知った人の中にはわたしに対する不快感を露にした人も居たがわたしは知らぬ振りして、添乗員の説明と指示に従って、搭乗手続きをする列から逸れないよう、小林司祭にべったり張り付くようにして付いて行った。様々な出国手続きから搭乗・出発まで約二時間もかかり、午前十一時に成田空港を後にして、中継地(乗り継ぎ地)オランダのアムステルダム空港へ向かった。十二時間の予定が一時間早く到着し、四時間の待ち合わせが五時間になりカイロ行きに乗り換え、そこからまた約五時間かかってカイロ空港に着いたのが真夜中。日付も変わっていた。ナイルの河岸に建つホテルに直行し、約二十時間に及ぶ長旅の疲れを癒した。
 二十二日(第二日目)、ホテルでの朝食後、観光バスはカイロ市西方に広がる砂漠地帯に向かった。市街地からでも手が届くかと錯覚するほど近くに感じる巨大なピラミッドをビルの合間から望む事が出来た。その市街地を抜けると直ぐ砂漠地帯に入り、先ず、ギザの三基のピラミッド(クフ王、カフラー王、メンカフラー王)のクフ王のピラミッド近くまで行った。既に何台もの観光バスが停まっていた。余り風が吹いていなかったので、わたしもバスから降りて、ピラミッドを背景に個人的な記念写真を撮って貰った。
それから、スフィンクスに向かった。砂漠に降り立ったわたしはT姉に引かれながら足元に気を配りつつ一行から余り離れないように一生懸命歩いた。巨大なスフィンクスの近く来た時、スフィクスを背景にこの度のツァー記念の集合写真を撮ることになった。私自身は一行の中に加わって撮って欲しかった。しかし、この一行の中にはわたしに対する不快感を露にしている人がいることがわたしの気持ちを動揺させていた。戸惑ってもじもじしていると「皆さん、早く纏まってこちらのカメラを見てください!」と添乗員が催促する声がした。T姉はわたしを引っ張って列に加わろうとした。そうだ!背景はスフィンクスだ。昔大砲で撃たれて酷い顔になっている。ひょっとしたらわたしの顔の方がましに写るかもしれない?!そう思いつつ手を唇に添えて懸命に唇を結んだ。と言っても何のことかよく分からない人もいる筈。ここで少し解説しておこう。実は、わたしはハンセン病特有の「神経麻痺」により顔面、特に下唇が緩んで下がっているのを手で上げて息を強く吸い込んで唇を真一文字に結ぶ。しかし、息を強く吸い込む仕草が長く続くと疲れるので、早くシャッターが切られるまでじっと我慢することになる。しかし、その結果どう写ったかはご想像にお任せする。
 そこから展望台まで砂漠の中を暫く走った。その展望台から大きな三基のピラミッドが展望できた。観光写真でよく見る風景である。その圧巻の風景を背景にして自分の足で立って居る何とも言いようのない心情は言葉にはならない。それは現地に行った者だけが実感できる感情かも知れない。
 午後はカイロ市内へ戻って、ツタンカーメン王黄金のマスクをはじめ五千年の歴史が凝縮したエジプト考古学博物館。ツタンカーメン王黄金のマスクは今から約三十数年前に京都で開催されたエジプト展で見た事があり、今回は、エジプト考古学博物館見学は辞退しバスの中で休息していた。オールドカイロの初期キリスト教会の伝統を受け継ぐコプト教会とユダヤ教のベン・エズラ・シナゴークには足を運んだ。コプト教会は、聖家族がエジプトへ逃避した折にお住みになったと言い伝えられており、その歴史の重みを実感させられる思いがした。

2.「近きに問い、心に思う」

 新しい年・二〇〇六年を迎えた。当初の旅行日程は4月中旬を予定していたが、諸般の事情、ことに小林司祭の日程を考慮して、3月下旬予定のツアーに繰り上げることになった。年の初めからツアー参加の心構えやら、コースのポイントをビデオで観賞したりしてその日を待つことにした。
 3月18日(土)夜、翌日(主日礼拝)の打ち合わせもあって、小林司祭がわたしの部屋に来て「ところで、パスポートは確認したか?」と、明後日(20日)出発の「シナイ山・イスラエルの旅」の準備の確認を促した。わたしは自信たっぷりに「まぁ、すっかりできているさ…」って応答しながら、荷物は今週はじめに成田空港のホテルへ送ったし、ドル紙幣との換金も終わったし、……などなど独り言でも言うように確認しながら、何時も貴重品を入れる袋(携帯用皮袋)を取り出し、パスポートはこの中に入っている筈だと言って、チャックを開けた。"あれっ?!"…入っている筈のパスポートがない!先ほどまでの自信は吹っ飛んでしまった。
 昨年の暮れに旅行手続きして以来、小林司祭から折に触れて"パスポートの確認を…"何度も促されていた。………にもかかわらずこの始末。今更言い訳など言っている暇などない。身近なところから貴重品を入れて置くところの引き出しを片っ端から探したけれど見つからない。そこで、小林先生も加わって昨年暮れに手続きした時、パスポートをコピーしたことから、その後何処へ直したかをたどりながら探した。コピー機が置いてある教会まで行って探したがそこにもなかった。それから、T姉妹も駈け付けて三人で再度引き出しなどを探したが見つけ出す事が出来なかった。
 探しあぐねた末、もしかして空港ホテルに送ったバック中へ紛れ込んだのではないかという話になり、ホテルへ電話してバックの中を探してもらったがそこにもなかった。これで思い当たる所はすべて何度となく三人で探しても遂に発見できなかった。夜も遅くなったので、T姉妹は「出発までにはまだ明日一日あるから、もしかして出て来るかも知れないから(諦めないで…)」と言い残して帰宅した。小林司祭も宿舎へ引き上げていった。
 出発までにパスポートが見つからなくては飛行機には乗れない! そうなれば当然の事ながら"この度の旅行は取りやめるしかない!"しかし"パスポートを無くして旅行は取りやめた"とはとても恥ずかしくて言えそうになく…、その時の頭の中にはただ「後悔」のみが残った。
 その虚しい思いから抜け出そうと、パソコンに向かってゲームをはじめていた。そのゲームがうまくあがったら寝る事にした。何度か目かにあがって「近きに問い、心に思う」と云う言葉が表示された。何を意味することばかよく理解できない侭に床に付き、"近きに問い…"を呪文でも唱えるように繰り返しながら眠りに着いていた。
 翌朝五時半頃に目が覚めると同時に就眠前の呪文?"近きに問い"は"近くを探せ!"という言葉とタブって脳裏に浮かんで来た。早速着替えて、昨晩何度も三人でそれぞれが探したところ(何時も机に向かって座る時、目に止まり易いところ、目に近いところ)には未処理の書簡などを置くところ(手元)の重なった書簡を上から一つずつ丁寧に封筒の中身までいちいち確認した。何通目かにA3三つ折り用紙を入れる中型の封筒を逆さにしたら、中から赤い手帳が落ちた。"あった!"「日本国」と書かれた鮮やかな金文字が目に止まり眠気を払った。昨晩三人であんなに探しても見つけ出せなかった「パスポート」が出て来たのだ。
 早速、朝の六時半頃、心配掛けたT姉妹に電話してパスポートが見つかった喜びを報告して昨晩の労に感謝した。宿舎の小林司祭にも電話して報告とお礼を言った。一時は旅行断念を覚悟していたが、昨晩の悪夢はすっかり晴れて清々しい気分で朝食を摂り、主日礼拝に向かった。

1.懲りずに三度目

 イスラエル(聖地)巡礼は、クリスチャンなら一度は行って見たいと思う場所である。しかし、重度のハンセン病後遺症をもっているわたしには「聖地巡礼」なんて夢のような話であった。わたしの胸中を知ってか知らずか、9年前に「(聖地へ)行って見たいなら、一緒に行こうか?」と誘ってくれたのが小林司祭だった。わたしのような不自由な者を10日間という長期間、しかも国外旅行に連れて行くのは大変なことだと言うことは容易に予測できる。小林司祭にどんな負担をかけることになるのか、私自身にとって何よりも気にかかることだった。
 9年前(1997年4月)に聖地巡礼の感想文の纏めに、小林司祭にも一文を書いてもらったがその小見出しのタイトル「太田先生は普通じゃない!」から、その内容が想像されるように、わたしは非常に我儘な性格の持ち主である。エルサレムの城壁の上を歩いて見たいとか、コースの中で急坂な坂道を歩かされると、不平を言って困らせた。通常の人の中では"自分は思い遣りの在る方だ…"と自負していた小林司祭が想像もしなかったハプニングの続出であった。今ではそれらの出来事がすべて楽しくも懐かしい思い出となっている。"もう、いつ死んでも思い残すことはない!"と、聖地巡礼の満足感を語った時、小林司祭が「そうか、わたしは葬送式の説教ができたから…」と笑った。

 その後(2004年5月)、「今度はイタリアのアッシジへ行って見ようか?}と、小林司祭からのお誘いを受けてとても嬉しかった。前回の聖地巡礼では一方ならぬご苦労をおかけしたにもかかわらず、懲りもせずお誘いくださったご厚意に感謝した。1997年に聖地巡礼をはたし、できることならもう一度行って見たい、と心密かに願っていたが、イスラエルの国状が定まらずなかなか実現しそうになかった。その矢先のお誘いだった。
 実は、小林司祭もわたしも同じクリスチャンネーム=アッシジの「フランシス」だったこともあって、是非行って見たいところの一つでもあった。
 そのアッシジへ行って見て感じたことだが、城壁に囲まれた小さな町、その城外に麦畑やぶどう園がパッチワークのように素朴な田園風景が広がり、国や人の争い、この世の煩わしさ疲れた者を癒してくれそうな雰囲気の中に包み込まれる思いがした。なんとも優しい気持ちにされたことを今も忘れる事ができない。なによりも、今から750年前に、富豪の家に育ったフランシスが富も栄耀栄華をかなぐり捨てて、イエス・キリストのみを慕い続けながら、世に捨てられたハンセン病者の友となって救済した足跡を辿る事ができたことは今を生かされる励みとなっている。今回も旅の終わりに"もう、いつ死んでも思い残すことはない!"と言ってしまった。小林司祭が「葬儀の説教は7年前に出来ているからなぁ~(…いつでもいいよ…)」って言うので大笑した。

 映画「十戒」のヒーロー・モーセの足跡を辿るコース(シナイ山)がセットされている「シナイ山・イスラエルの旅」のツアー参加募集があった。小林司祭はシナイ山へ行った事があるけど今一度行って見たいと思っているので参加申し込みする旨を話聞かせながら、"一緒に行こうか?"と、三度目のお誘いの話を聞いたのが昨年の10月頃だったと思う。しかし。視力が低下したことと同時に、体力的にも衰えを感じていたこともあって即答しかねていた。
 やがてその年の瀬を迎えてから、今回の海外旅行が最後のチャンスだと思うようになり、この度のツアー参加を決断し、その参加申し込み手続きのすべてを小林司祭にお願いした。その後、恵楓園の近くにお住まいのT姉も参加される事を知り心強くなった。T姉は助産師さんで看護のプロで、わたしが属している教会でご奉仕下さっている顔馴染みでした。また、そのT姉の親しいお友達(広島在住の現役の看護師)も参加されると聞いた。T姉がわたしのお友達と二人が小林司祭と共に支えますので「ご一緒しましょう…」と励まされて準備にも弾みがついた。
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