「訪問」を「交流」に(2)

 過去40余年の歴史を刻んだ「郷土訪問事業」の歴史は隔離政策を償う一つの方法であったかも知れない。その歴史の中で、クローズアップした熊本県で起きた「宿泊拒否事件」は、ハンセン病に対する偏見・差別の根さを浮き彫りにした。
 1995(平成7)年、らい予防法廃止に関する法律が成立し(04/01施行)、約一世紀に及ぶ国策の隔離政策から、国法的にも解放され自由になった。しかし、ハンセン病に対する偏見・差別は旧態依然として蔓延っていた。そして、2001年(平成13年)にはハンセン病国陪訴訟の熊本地裁判決に勝利し、人間回復の扉が開かれた。
 それでもハンセン病に対する偏見・差別払拭のための啓発活動は進まなかった。そのことを糾弾するかのように熊本で「宿泊拒否事件」が発生した。その時の潮谷熊本県知事は、らい予防法が廃止され、熊本地裁の判決によってハンセン病隔離政策が断罪され、国は謝罪した。国策に加担して来た県政も反省すると同時にハンセン病問題の啓発に力を注いできた、これまでの5年間の啓発活動は何だったのか?と言うような談話で述懐していた。
 一世紀にも亘る国策によって執行して来た「隔離政策」を旗印にしたハンセン病に対する偏見・差別が5年間の啓発活動で払拭されるわけがない。それ程にハンセン病に対する偏見・差別は根深いのであることを痛恨した出来事であった。国は3大新聞をはじめ、全国の代表的な地方紙を含めた50社の新聞紙上に公の謝罪文を2度も掲載したり、全国の中学校に「ハンセン病の正しい理解」という6ページ建てのカラーのパンフレットを配布したが、それらをどれだけの人々が読んだで正しく理解したであろうか?それら啓発のために用いた経費は数億だったと聞いた事がある。
 「宿泊拒否事件」に目覚めたように、国も県も民間に在っても、ハンセン病に対する啓発活動に一層の力を注ぐようになった。
 そして、その啓発活動の在り方にも変化が見られた。それはこれまでの主流であったペーハー(新聞やパンフレット等)であったが、その事件後は療養所の見学学習や入所者との交流会や直接入所者の声を聞く事などの啓発プログラムが組まれるようになった。入所者との交流会で入所者の生の声が訪問者に与えたインパクトは計り知れない啓発力を発揮した、と言っても過言ではない
 。そうした経験から、これから行う県の郷土訪問は「ふるさと交流」に事業の新規一転を図ることを望んでやまない。ここ何年か前から、従来の郷土訪問をふるさと交流の機会にして欲しいと県に訴えて居るがなかなか変わらないのは何故か?
 そう言う考えを抱く参加者が居ないからだと言う事がある。何故なら、自分の郷里の人々に何処の家の者か分かると家族に迷惑をかける、と思うからである。自発的に入所したと言えど、理不尽にも家族からも偏見と差別を持って見捨てられた事には変わりはない。ハンセン病に対する偏見・差別を無くする啓発活動の最後の砦は各自の家族であることを見逃してはいけない。
 自分が家族に迎え入れられる存在を取り戻すことだけが人間回復ではないにしても、人間性を実感出来るのは何と言っても家族の一員に加えられる事だと思う。そして、その事をふるさとの周囲の人々に知って頂くこと、正しい理解をして頂くことである。そのためには先ず県が率先してそのための事業(ふるさと交流会)を推進することをここに改めて提案するものです。

[参考] テレビ愛知・糧説委員室コラムNo.176 太田さん、故郷で語る

「訪問」を「交流」に(1)

 ハンセン病患者を隔離収容する国策に加担した「無らい県運動」を通じて、ハンセン病療養所へ送り込んで来た事に対する謝罪の気持ちから、鳥取県は入所者の「郷土訪問事業」を他県に先駆けて1964(昭和39)年11月4日に実施したと言われて居る。それ以後、他県でも「ふるさと訪問」または「郷土訪問」として県の事業を行うようになった。愛知県では1966(昭和41)年から始まった。1966(昭和41)年〜1995(平成13)年は藤楓協会愛知県支部が行っていたが、翌1996(平成14)年から県の事業として行うようになった。
 1964(昭和39)年に、鳥取県が初めて「郷土訪問事業」を開始して以来、40余年の歳月が経過し、今はその内容も様変わりして来ている。当初は入所者に大変喜ばれた。療養所に入所した経緯は異なっていたとしても、強制収容、渋々の自発的にしろ、家族からも見放され、ふるさとから追い出された事には代わりはない。家族のためにと、理不尽な別れを強いられた挙句、入所した療養所とは名ばかりの、隔離収容所で強制労働を強いられ、ただ望郷の思いだけを積み重ねて来た月日。
 戦後、ハンセン病の特効薬・プロミンの出現に不治からの解放に喜んだ。ハンセン病後遺症を持たない若い人々の多くは社会復帰を果たしたが、ハンセン病は完治しても後遺症を持った人々や高齢者の殆どは今居る療養所を第二のふるさととして終生療養所に止まらざるを得なかった。そんな時期に「郷土訪問」が企画され、たとえ自分の家に帰る事は出来なくても、自分が生まれた家の様子や周囲の変化を自分の目でひと目見たいと思って参加し、ふるさとの変貌振りに歳月の流れを痛感して思わず涙することもあった。視力を失った者の中には、郷里の道端に生えている草を摘んで貰ってその草を噛みながら郷土の香りの懐かしに感涙する風景もあって「郷土訪問」はわが郷里と長い間隔絶されていた人々とにとって大いなる慰めとなって歓迎されていた。〜つづく〜

その時が来た〜7月10日〜

  小笠原登博士 (1888〜1970)は、当時過っていたハンセン病隔離政策に真っ向から反対し、そのご意志を生涯貫れた。82歳でこの世を去られて38年になる(1970年12月12日没)。また、1888(明治21)年7月10日、愛知県海部郡甚目寺町円周寺で生まれ、約40年間をハンセン病治療一筋に献身しされた。今年はその小笠原登博士生誕120周年の記念すべき年である。
 奇しくもこの年に「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」(ハンセン病問題基本法)が成立し(2008年6月11日)、2009年4月1日施行となった。大場昇著「やがて私の時代が来る―小笠原登伝」(2007年発行)のタイトルに見るように、まさに“その時が来た”のである。
 しかし、ハンセン病に対する偏見と差別が払拭された訳ではない。熊本判決はハンセン病に対する謂れなき偏見と差別を断罪した。廃人とまで言われたハンセン病を患った者の人間回復の門を開き、その人生被害を明らかにした。そして、
 ところが、藤野豊著「ハンセン病ーー反省なき国家」(2008年5月発行)に見られる“熊本判決以後もやまない国家の無反省ぶりと開き直りの言説を批判”に共感すると共に、国・厚労省は何時ものらりくらりと施策を先延ばしにする“立ち枯れ政策”その政策・施策に不信感を募らせる一方である。最後の人のまで“生きて居てよかった!”と喜んで貰えるように努力する、と言った謝罪時の約束は色あせてきた。
 入所者の安全・安全を約束しながら、そこで働く職員の定員削減を強行して何で安心・安全な医療を施すことが出来るのか?、全国2700余名の入所者の平均年齢は79.5歳を超えた後期高齢者である。入所者数が減ったからと言って、単純に職員数を減らしてもいいのか?入所者は年毎の加齢化に進み、その多くは5、6つの合併症を持っているために、看護・介護の手が増大する一方である。ナースコールしても“ちょっと待ってて…”と言われて激痛を耐え忍ぶケースが段々多くなっている現実に目を逸らさないで欲しい!職員削減の皺寄せは入所者一人々々に及ぶ事を見逃さないで下さい!と叫び声を挙げずには居られない。
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