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やっとこ半生

§はじめに§
〔註〕この講演原稿は1996(平成8)年の秋、再春荘病院高等看護学校でお話した時の原稿です。

 先ず最初に、お断りしておきたいことがありますが、それは、一見してお分かり頂けますように、顔の症状、殊に唇もこの病気に侵され、巧く発音出来ないために、お話をする場合はお聞き苦しい言葉が沢山出ますが、その点こうした文章ではそんなこともなく助かります。

 わたしの話のテーマは《やっとこ半生》とさせて頂きました。わたしの人生に大きな転機をもたらした3つの転機(出来事)を中心にして、その折々の療養生活の側面とわたしの歩んで来た半生の一端を紹介させて頂こうと考えています。

 さて、わたしがハンセン病に罹って、“くさつよいとこ一度はおいで・・”で有名な、群馬県の草津温泉の近くにあります、国立療養所・栗生楽泉園へ入所しましたのは、1946年(昭和21年)2月20日でした。

 また、《やっとこ》としましたのは、《やっとこ》はご存知だと思いますが、針金や板金加工の折りに用いる工具の一つです。このやっとこがわたしの日常生活の一部分を補っています。

 旅に出る時には必ず持って行きます。航空便を利用する時、X線でチェックされますが、その時よく反応し、“これは何ですか?”と、係官に尋ねられます。“わたしは、ご覧のように手が不自由で指先の代わりに使用する生活補助具です”と説明します。すると直ぐ、了解して通してくれます。

 因みに、このやっとこで、切手をちぎって貼ったり、綿棒を摘んで耳掻き・耳掃除をしたり、靴下を履くときに摘んで引っ張ったり、シャツのボタンをはずしたりと、いわゆるわたしの指先を代行する、生活補助具です。以前は一寸した針仕事、ボタン着けなどをした事もありました。今は致しません。

 今少し補助具のことを付け加えますと、手に障害を持っている療友たちは、それぞれの障害の程度に似合った補助具を持っています。

 ある人は医療器具のピンセット、また、別の人はラジオ・ペンチと言った具合です。また、細い針金を曲げて作ったボタン掛けを使用している療友もいます。ボタン掛けは自分で作ったものを使用しています。

 そのように“やっとこ”は工具の一つですが、今一つの意味は、“やっとのことで、辛うじて、苦労して”という意味で用いられます。また“やっとこさ”という掛け声にも用います。

 従って、わたしの半生は“やっとの思いで”過ごした半生であったと納得しています。この2つの意味合いを含めて《やっとこ半生》とさせて頂きました。

§第1の転機§
 ~発病・郷里から療養所へ

 さて、わたしは初等科6年を修了したことになっていますが、鎭歳の時(小学3年生の頃)に、はじめて自覚症状が出ました。従って、6年生までの3年間、学級仲間からは元より、先生からも、いじめや嫌がらせを受けました。《カッタイ棒、なりん棒、腐れ、と言った差別用語を浴びせられました。熊本には“きゃ腐れ”という差別語があります》。

 しかし、中には親切な先生がおられ、同情して下さって、“6年生の修学旅行が終わるまでは我慢して来なさい”と励まして下さったので、そう致しました。

 従って、辛うじて初等科6年生の修了証書は頂きましたが、その後、年毎に症状も重くなりましたので、学校には行かず、気休め的に病院へ通っていました。しかし大方はあれこれと家の手伝いをしながら2年間を過ごしました。

 当時は“産めよ、増やせよ”の時代で、私の母は頑張って鎹人を産み鎭人を育てて表彰されたそうです。わたしはその末っ子でした。

 しかし、一番上の兄は既に同じ病気で、栗生楽泉園に入所していました。その兄が危篤状態になったという、電報が来ましたので、その兄を見舞うことになりました。その機会に、急遽父に連れられて入所することになりました。

 わたしは愛知県生まれで、名古屋から中央線で篠ノ井まで行き、信越線に乗り換えて軽井沢へ、軽井沢からは軽便鉄道で、草津温泉まで行き、そこから4キロ程歩いて療養所へ辿り着きました。

 草津の温泉は大変熱いのですが、2月の気候は豪雪期で、しかも真冬の夕方、アイスバンの雪道を何度も転びながら入所しました。終戦直後の1946年(昭和21年2月20日)でした。その時の切ない思いは今も忘れることはできません。

 そして、わたしが入所して一週間後に、その兄は死にましたが、私を抱いた事のあるその兄がわたしを側に寝かせようとしましたが、明日の晩にしようと、言い逃れをしながら、ついには一度も一緒に寝てやることもなく一週間が過ぎてしまいました。従って、とうとう兄の願いを叶えずじまいでした。そのことが今も悔やまれて成りません。

 終戦直後のこと、食料も医療もままならない時期でした。療養所とは名ばかりの、医薬品は元より食料・衣料などが極度に欠乏していました。そんな療養所の窮状を補い支えてくれたのは、外国の救援団体から大量に送られて来た、ララ物資の支給でした。 また、当時は、園内にある火葬場の炉が冷める日が無い程、多くの病友が栄養失調などで死にました。今夜は通夜、明日は葬儀・火葬と毎日のように死に関わる中、一人の若い療友が自殺しました時、いのちの尊さを教えてくれたのがキリスト教でした。

 聖書の中にある言葉ですが「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マルコ 8:36, ルカ 9:25)。と、いのちの尊さを教えられました。

 最近、耳にする言葉にもありますように《人の命は地球よりも重い》ということを教えられました。

 従って、入所2年後にキリスト教を信じ、明日への希望に生かされる信仰へと導かれ、1948年(昭和23年)に、洗礼を受け、教会活動にも進んで参加するようになりました。殊に、教会に通って来る若い仲間を集めて、教会青年会を組織し、その活動を通して信仰による恵みを分かち合っていました。

 ところで、“祈ってばかりいて何も行動しないなら、療養生活は改善されない”とばかりに、単純な正義感が芽生え、生活改善運動に参画するようになり、遂には、共産党へ入党するまでに熱く燃えていました。従って、数年間は園内での様々な改善運動に参画して、青春を費やしていました。

 例えば、医療の充実を求める運動をはじめ、特効薬・プロミンの獲得運動、医者よこせ運動、人権闘争等々、衣食住全般に渉る要求運動が盛んに行われました。

 因みに、ここで“人権闘争、人間回復”と言うことについて、少しコメントいたしますが、明治の初期、後藤昌文と言う人が、旧加賀藩の空き長屋にハンセン病者を収容し、ハンセン病専門病院“起廃院”を経営していました(1874年明治7年)。

 また、好善社はハンセン病者救済のために“慰廃園”を、1894年、明治27年に設立しました。

 これらの病院名にも見られますように、その時代は、ハンセン病者は“廃人”として扱われていましたから、その廃人を慰める“慰廃園”、また廃人を起こす“起廃院”という名が付けられたようです。

 しかし、第2次世界大戦終結後間もなく、1945年、昭和20年秋頃、いち早く婦人参政権と共に、ハンセン病者には国政選挙権が与えられました。

 そのことに時(意)を得て、人権・人間回復の第一歩を踏み出したとも言えます。ハンセン病者と言えども、人間らしい療養生活をと、処遇改善を訴えて“人権闘争”が繰り広げられました。

 今日では“らい予防法”の廃止と“保護法”の制定を求めて、ハンセン病に対する偏見が払拭されんことを目指して、啓蒙運動が続いています。

§第2の転機§
  ~献身・草津から岡山へ

 さて、戦後間もなく、ハンセン病の新しい治療薬・特効薬プロミンが療養所に大きな変化をもたらしました。しかし、ハンセン病は、元来天刑病・不治の病と忌み嫌われて、謂われなき偏見のもとにあり、人権無視の隔離政策が問われるようになって来ました。

 新しい治療薬・特効薬プロミンは、1941年(昭和鏥年)アメリカのハンセン病療養所で実証され、既に脅威的な治療効果を上げていました。しかし、第2次世界大戦が始まっていましたから、その恩恵に与ることは出来ませんでした。

 さて、お渡し致しました資料の中でも紹介していますが、ここでそのプロミンのことを紹介しますと、結核菌とハンセン病菌とは性質的には良く似た病原菌です。

 結核菌とハンセン病菌の大きな相違点は結核菌は体内の臓器を侵します。しかし、ハンセン病菌は体外の皮膚や末梢神経を侵す点が異なっています。

 また、結核菌は試験管の中で培養することができますので、新薬の研究・開発も比較的容易です。しかし、ハンセン病菌の場合は、試験管での培養は困難と言うより、不可能に近いと言うべきかも知れません。従って、良い治療薬を開発することはなかなか困難でした。

 大分前のことになりますが、体長40センチ程で、背中に鎧のような皮をつけた動物・アルマジロの足の裏で、ハンセン病菌の移植に成功した、と言って大変騒がれたことがある位いです。

 ハンセン病菌は体温の低いところを好むことが分かっていましたから、それを実証したのがこのアルマジロの足の裏であったと言うことにもなります。

 そのように、培養は愚か移植すら困難な菌ですから、カンタンに伝染する病気ではないことは、関係者の間では良く知られています。

 ハンセン病は慢性伝染病~奄美和光園の話をする~園長が篤いカトリック信徒であったことも有ってか、この療養所では、所内結婚の条件であった、ワゼクトミー(断種手術)を強要しなかったと聴いています。

 従って、子供が産まれると直ぐ、名瀬市内にあるカトリックの保育所で引き取って、育てられる事になりますが、出産して直ぐ手放すことが出来ないときは、暫く手元で育てた後、園内の保育施設へ預ける事になります。

 出産して直ぐ保育所へ預けた場合と可愛さの余り手元で育てた場合とでは、大きな差が出ました。前者の場合はたとえ病者の子であっても発病しない。しかし、後者の場合のように、手もに長く置いて育てた子の中には、発病する子もいました。

 この事実からでも、正に慢性伝染病で、如何に微弱な伝染力かが分かって頂けると思いますが。

 ところで、細菌性疾患にたいする治療薬・スルファミン剤が発見されましたが、結核菌やハンセン病菌には期待するほどの効果を得ることは出来ず。その後の研究で結核治療薬として、プロミン、ダイアゾンが製造されました。

 しかしこれも、結核治療に効果を修めることは出来なかったので、結核菌と性質が類似するハンセン病治療に試みたところ、それが実に驚くべき成果を得ることができたんです。

 戦後間もなく、そのことが分かり、速やかな適用を望んで厚生省への陳情が行われ、園内では断食を伴うプロミン獲得運動で、騒然となった時代がありました。

 その特効薬・プロミンの治療により、社会へ復帰する者も沢山現れるようになりました。殊に、後遺症の目立たない、若い者の多くはその治療の成果に与ることができました。

 しかし、ハンセン病に対する根深い偏見は、その特効薬のようにはゆきませんでした。また、病気そのものは癒されても、一旦ハンセン病に侵された体の後遺症まで癒すことは出来ませんでした。

 従って、病気は癒されても社会復帰することが出来ない者は、好むと好まざるに拘わらず、死ぬまで、終生療養生活を送らなければならないことになります。わたしもその中の一人です。

 終生療養生活を送らなければならない点でも、一般の療養所とは大変異なる療養所であるとも言えます。従って、療養所というよりは生活の場となっているのがハンセン病療養所の実態だと言えます。

 そうした様々な変化の中で、唯心論的な宗教と唯物論的な共産主義の両極端に関わっていたわたしは自己矛盾に陥りました。また、周囲からもその矛盾が指摘されました。

 その解決として《二頭を追う者は一頭を得ず》のたとえにもありますように、あれか、これか、その一つを選択することによって、矛盾り解決をはかりました。

 たとえ小さな園内の処遇改善活動とは言え、その精神の根底には被害意識が強くあり、常に不平・不満を活動のエネルギーにする側面がありました。このまま不平・不満の人生で終わることにも疑問を感じるようになっていた時でもありました。

 加えて、青春時代の真っただ中にあり、失恋の悩みもありました。そこで、一新発起、共産党から脱会して、信仰に生かされる喜びと希望の光を求める在り方へと方向転換をする契機としました。

 その結果、当時岡山のハンセン病療養所・長島愛生園内に開校されていた「長島聖書学舎」へ入学することにしました。その3年間の学びの中で、信仰に生かされる恵みと喜びこそが生き甲斐の糧だと示されました。

 聖書には「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ 4:4)とありますが、人はパン即ちもの(物質的なもの)によってのみ生きるものではなく、神様の言葉即ち“神さまの御心”又“真理”に従って、生きるように示されました。

 “神様の御心”それは“神の愛”と言うことでもあります。何故なら“神様の本質は愛である”からです。その神の愛によって、わたしは生かされる存在だ、と信じるようになりました。

 わたしは、神様からは元より多くの方々から愛されているが故に今を生かされています。その愛は関係概念・愛すること、愛されることです。愛されていることが分かれば、他者をも愛さなければなりません。

 この世は“愛”によって結ばれる世界だとも言えます。その“愛のきずな”を信じて、キリスト教に献身する決意を固めました。

 その3年間の学びを修了し、再び、群馬県の栗生楽泉園に戻り、その中の聖慰主教会で教会活動に専念するところとなりました。

 やがて、1973年(昭和48年鎹日鏝日)キリスト教・聖公会公認の執事職・牧師補に叙任され、今日に至っていますが、ハンセン病療養人がそのような聖職に叙任されることは珍しい出来事でもありました。

長島聖書学舎で学んでいたとき、大変、親切に世話をしてくれていた、女性と結婚することになりましたが、わたしより、25歳も年上で親子のような夫婦でした。

最近、年上の女性がもてるようですが、わたしは末っ子の性か、年上のことは気になりませんでした。

 わたしの場合は、わたしの信仰を育て、深めてくれた信仰の母でもあり、不自由なわたしの日常生活を支えてくれた、良き助け手でもあり、大変恵まれた日々を過ごしました。

 ハンセン病療養所では、所内結婚が認められていました。この点でも他の療養所とは異なる点だと思います。風紀を保ち、逃走を防止する目的もありましたが、ハンセン病患者を隔離し、その成果を上げるために採られた隔離政策の一つでした。

 また、所内結婚は認められていましたが、子供を産むことは許されていませんので、通常はワゼクトミー(断種手術)を受けることが結婚の条件でもありました。

 それは、人権蹂躙、国政の恥部でもあります。わたしの場合は、年齢が年齢でしたから、そのような手術を受ける必要はありませんでした。

 因みに、そうした人権侵害の隔離政策を行わせた根本的な事柄に迫る「らい予防法」の即時廃止と、人権尊重の精神に則った「保護法」の制定を掲げた運動が注目され初め、最近の熊日新聞やテレビ、ラジオのマスメディアでも度々採り上げられ、報じられています。

 ところで、わたしの半身は、ハンセン病と誤診された侭、ハンセン病療養所で一生を終わりました。従って、歳をとっていること以外は、身体的には何処も不自由なところはありませんでした。

 わたしはMOL(ミッション・オブ・レパーズ、ハンセン病者による福音宣教協会の略称)の理事をしていました。わが国のハンセン病救済は、キリスト教・宣教師たちの献身によってはじめられ、その恵みに応える意味で結成された団体ですが、その理事会開催の折りには、半身を介添えに、共に旅をする機会が多くありました。

 そのお陰で、北は青森から南は沖縄・宮古島までの、13の療養所、また3つの私立病院をも何度かお訪ねするとこが出来、多くのお交わりが与えられています。

 そうした旅先の車中で、前の席に子供がいますと、その子供は振り返って私の顔ををじろじろ見ます。その子供の親がたしなめても、また直ぐ私を不思議そうにじろじろ見ます。

 それを見かねた介添えの半身があやして、その視線を逸らさせることもありますが、そんな時には自分の顔がどんなに醜いかを思い知らされて、ひどく落ち込むことがあります。

§第3の転機§
  ~試練・草津から熊本へ

 ところで、1982年(昭和57年)鎹月鐐日、14年間共に生きて来た半身を天国へ送りましたが、愛する者を失ったわたしの落胆ぶりはお話しするのも恥ずかしい程でした。召天一ヶ月の逝去者記念式が終わるまでの一ヶ月はあっという間に過ぎ去つてしまいました。

 これで一区切り着いたと思った矢先に、風邪を引いて寝込むことになってしまいました。少し良くなっても、起きる気力まで失い、いろんな事を思い出しは泣く女々しい日々が続きました。結局半年位はそんな生活を送っていました。わたしにとっては大きな試練の時でした。

その年の夏(8月半ば)、社会人によるワークキャンプが栗生楽泉園で行われました。そのチャプレンとして来られた、熊本・菊池黎明教会の管理牧師がわたしを訪ねて、菊池黎明教会の教会運営に、協力して欲しい旨の申し出がありました。

 しかし、先にも申し上げましたように、愛する半身を失った失意に埋没していたわたしは、唐突にも思える申し出に戸惑い、そんな大事な事柄を軽率に受ける心境ではありませんでした。従って、お断り致しました。

その後、今は亡き半身を追憶する日々の中で、半身が60歳を越えてから、38年間も住み慣れた岡山の療園を離れて、寒冷地の草津へ移り、25歳も年下のわたしと結婚したのは、単に不自由な私の助け手になる為ではなかったことを思い出していました。

 しかし、信仰による喜びと感謝をもって人に仕える、今は亡き半身の生き方に目覚め、一旦は断った、菊池黎明教会からの要請を受ける決断を致しました。

岡山の愛生園への転園の時もそうでしたが、同じ国立療養所とはいえ、そう簡単に転園することは出来ませんでした。

 手続きの問題をはじめ、紆余曲折がありましたけれども、1984年(昭和59年)の10月10日に熊本の菊池恵楓園へ転園して来ました。以来今年で、鎹年目に入りました。年月の過ぎ行く速さを痛感している昨今です。

 こちらに転園して、先ず感じたことは、率直に言って、“閉鎖的で、官僚的な療養所だなぁー”という事でした。

今は隔離政策の象徴として遺されていますが、恵楓園の北側には2メートルを超える鉄筋の塀(現在は植え込みが茂って、外からは良く見えませんが)、また外側に堀を巡らせた跡を見たからかも知れません。

 これまで鐫数年間を過ごして来た、栗生楽泉園は自由療養所というイメージがありました。ただイメージだけでなく、外部との交流・出入りも自由でした。因みに、栗生楽泉園には塀も堀もありませんでした。

 此方では教会の仕事に専念することでしたが、その内容は別にして、わたしが心掛けたことの一つは“開かれた教会”即ち、開かれた環境を作ることでした。その一端として、園外の方々との交流を図りました。

 先ず、外部からの訪問者を積極的に受け入れ、また此方からも憶せず出かけて行き、交流を深めることでした。

 そうした中から、わたしたちが置かれている実態を理解して頂くこと、引いてはハンセン病の正しい理解を深めて頂くことでした。

 現在では、6名の方々が園外から、わたしたちの教会に通って来られるようになり、共に礼拝をするようになって、しかも会員としてその名を連ねています。

 菊池恵楓園の先々代の熊丸園長がアマチュア無線の資格を取得しておられた事もあって、療養者に無線による外部との交流を奨励していました。

 たとえ閉ざされた療園に在っても、電波による外部との交流が容易に出来ることから、アマチュア無線(ハム)が奨励されていたのだと思います。因みに、恵楓園には30名を超えるハム愛好家がいます。

 実は、わたしも1988年(昭和63年6月)に、コールサインJJ6XPNと言う無線局を開局して、ハム・ライフを楽しんでいました。しかし、現在は休んでいますが、フレンド作りを楽むことができます。ある時、太平洋を遥かに超えた、南米・ブラジルに住んでいる日本人と交信したときは感動しました。

 しかし、ハムはピーピー・ガァーガァー雑音が出ますので、寮に住んで居る関係で、隣の部屋に迷惑を掛けることになりますから、夜は交信を遠慮しなければなりません。しかし、マイカーを持っている方には連絡手段として大変便利なメディアだと思います。災害時にも良く利用されその効果が高く評価されています。

 因みに、この再春荘に入院しておられる方の中にも、ハムを楽しんでいる方も何人かおられますので、以前はわたしも何度か交信したことがあります。しかし、ここ4.5年交信して居ませんので、その方のコールサインを忘れてしまっています。

 さて、還暦を迎えたのを機会に、ボケ防止を兼ねて、パソコンを購入しました。教会の礼拝には欠かせない讃美歌、その讃美歌を伴奏するオルガンは有っても、そのオーガニストが居なければ伴奏は出来ません。

 療養所の平均年齢が高くなり、そうした奉仕者が居なくなりテープを利用して伴奏に代えることもあります。そんな事態を痛感して、パソコンで自由に演奏させたいものだと、常々思っていたこともあつて、パソコンにのめり込むことになりました。

 しかし、そう簡単にパソコンを操作する事はできず、持て余していた時、この再春荘のお隣にあります、電波高専に勤務しておられる、主にコンピュータを扱う先生とお知り合いになり、その先生から、懇切丁寧に教えて頂きました。パソコンの進歩は早く、次々と新しい便利なハードやソフトが登場し、仲々付いて行けません。従って、現在でもその先生に教えて頂いています。

 最近では、初期の思いを叶えるべく、讃美歌の曲データをパソコンに入力して、演奏させることができるようになりました。約550曲ある讃美歌を、今日までに約350曲データ化しました。入力した曲は何時でも演奏できるようになりました。

 最近話題になっています、インター・ネットには未だアクセスしていませんが、パソコン通信もしています。その中で、教会関係のデータや阪神大震災の現状を伝える様々なデータ、音楽データ、医療関係のデータ等々、ありとあらゆるデータをリアルタイムで受け取ることが出来ますから、ハムとは異なる楽しみが広がります。

 わたしが作った讃美歌のデータ《さんびかカラオケ・シリーズ》も多くのファンに利用され喜ばれています。

因みに、わたしはパソコン通信のニフティーに加入しています。そのID:JBB01252です、その中では《ひつじ》というハンドル・ネームを用いています。

 そのパソコンのワープロで教会の印刷物も作ったり、今日のような話の原稿を書いたり、ライフ・ワークにしている《さんびかカラオケ・シリーズ》の曲データを打ち込んだり、色々な画像を楽しんだりして、療養生活を豊かに、楽しく、忙しい日々を過ごしています。


§おわりに§

 さて、わたしの半生を変えた3つの転機、即ち、第1の転機は、~発病~ハンセン病が発病したために郷里を離れて草津・栗生楽泉園へ入所こと。第2の転機は、~献身~草津から岡山・長島愛生園へ転園した経緯。第3の転機は、~試練~草津から熊本・菊池恵楓園に転園した経緯と、その折々に辿って来た《やっとこ半生》の一端と共に、その時代の療養生活の背景・在り様も織り混ぜて紹介させて頂きました。

 しかし、皆さんのご期待に叶ったかどうか分かりませんが、最後に、ハンセン病療養所に於ける最後の課題となってクローズ・アップされて来た「らい予防法」廃止と、「保護法」の制定にまつわることを、今少しお話しして、今日の話を終わりたいと思います。p

 ところで、鎭月9日から熊日新聞のしあわせの風見鶏第2部として、菊池恵楓園のことが取り上げられていました。“自分が死んでも、だれにも知らせるな”という遺言を残して死んだ。《死んでも帰れぬ無念》なハンセン病療養者の心境、ハンセン病者の苦悩やその実態が数回に渉って紹介されていました。

 また、ラジオ放送でもハンセン病のことが取り上げられ、放送されています。ハッキリ覚えていませんが、ラジオ熊本かな?、今月の土曜日の朝(7時30分頃)だと思います。シリーズで何回か放送しているようです。

 更に、明日、鎭月鐐日午後2時35分から1時間15分に渉って、TKU・熊本テレビで、《日本の土に・・》と言うタイトルで、リデル・ライト両女史がハンセン病者の救済に尽くした偉大な業績の一端が放映されます。

 近代医学の成果によって、ハンセン病は不治の病から解放され完治する、普通の病になりました。にもかかわらず、ハンセン病に対する偏見は、余り解消されていない、と言うのが今日の実状です。

 開かれた療園を目指して、外部との交流を深めつつある団体にゲートボールの恵楓園チームがあります。そのチームが参加する5町村の大会で、恵楓園チームと対戦することになった七城町チームがその対戦を目前にして試合を放棄し、大会から引き上げてしまったという。ショッキングな出来事が在りました。これは、つい最近の出来事です。

 私自身の経験ですが、自動販売機で、切符を買う時、手が不自由で買えませんので、直ぐ後ろに並んでいた中年の女性に、切符を買ってくれませんかと、お願いしたところ、わたしは急いでいますので、後の人に頼んで・・・、と言って、自分のものを買ってホームの方へ去っていきました。

 わたしは仕方なく、直ぐ後ろの方にお願いしましたら、快く買ってくれました。お礼を言ってホームへ出ましたら、切符を買うことを断った先程の女性がホームで電車の来るのを待っていました。そこへ入って来た電車にわたしは乗りましたが、行き先が違うのかその女性は乗りませんでした。その時、わたしは不快を募らせました。

 わたしのように、外観でハンセン病者だと言うことが分かりますと、交通機関では乗車拒否に遭うことも、以前は珍しいことではありませんでした。昭和20年代のことですが、わたしも乗車拒否に遭った経験があります。流石に、近年はそうしたことは無くなりました。

 現在の菊池恵楓園の由布園長は、ハンセン病に対する偏見に心を痛め、“開かれた療園”を目指して、その啓蒙活動に惜しみない労を執っておられます。9月にはこの再春荘にも来て講演されたと聴いています。

 明年には、結論が出されると思いますが、人権を無視して来た「らい予防法」を廃止し、人権を尊重・養護する「保護法」の制定を巡って、色々なレベルでの研究会やシンポジュームが開かれるようになりました。

 人権を無視した隔離政策の下で、言うに言われない程の、様々な悲劇と戦い、無情、諦観的な忍従を強いられて来た、ハンセン病者が、今こそ、人権擁護の福祉にあずかれるように願っています。

 因みに、私共の教会の信仰の先輩に、津田治子と言う歌人がいました。大原富枝と言う小説家がその津田治子の生涯「忍びてゆかな」という小説を書きました (1982年、昭和57年)。その小説の題名になった短歌に「現身(うつしみ)にヨブの終わりの倖せはあらずともよししのびてゆかな」と詠みました。

 わが国ハンセン病の歴史は、隔離政策による人権無視の歴史で覆われている。と言っても過言ではない程に、ハンセン病者はもとより、その家族まで苦渋に満ちた、悲劇の舞台でもありました。

 また、わたしが聖書の学びをしていました、岡山の愛生園には、玉木愛子さんと言う歌人が居ました。何度も訪問して、よく存じ上げていますが、大変不自由な方で、部屋の中では、這って移動して居られました。

 その玉木愛子さんの名を世に広めた、代表的な名句を紹介致しますが、それは、絶望の中にも生きる希望を与えた名句です。わたしもこの句に大きな感動を覚えましたし、今もその句と共に玉木愛子さんを思い出します。

  毛虫匍えり 蝶と化る日を夢見つつ

  玉木愛子著「天の階」(昭和46年・1971.10.30.発行)81頁

 既に、明年6月には福岡で、シンポジュームを開催する準備がはじまっていますが、人権問題は切実なものばかりです。中でも、日本で生まれ育った外国籍をもった療友は少なくありません。その中には、帰化したくても帰化できない療友がいます。

 何故なら、帰化手続きは、所得税を一定期間納めていないものはその申請を提出することが出来ないからです。そうした人々の多くは、幼いときから療養所にいて所得税を納める機会がなかったんです。

 同じ病いと戦い、同じ療園に在りながら、同じ処遇を受けられない療友がいます。国境を越えられない福祉政策も人権問題の一つであります。

 従って、福祉国家を目指すわが国が、その国策に恥じない、保護法を制定することが出来ますよう、皆様方のご理解とご支援が頂けますよう重ねてお願い致します。

 また、此処にお集まり下さって、貧しいわたしの話を熱心に聞いて下さった皆様。殊に、わたしのように病む人々の助け手・看取り手となるために、看護学を学んでおられるお嬢さんたちが、単なる職業人として世に出るのではなく、一人びとりのいのちを尊重する優しい・思いやりを持った看護婦さんに成られますよう、お隣の恵楓園の一角で、祈りつつ見守らせて頂きます。

~おわり~

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