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アッシジの旅から

20060808190645.jpg 一九九七(平成九)年四月に、はじめて小林司祭と二人旅で巡礼した時「もう何時死んでもいい!」と感激した。しかし、日が経ち歳月が過ぎてゆく中で、今一度行って見たいという思いが募って居た。そんな想いの中へ、小林司祭が「イスラエルの国情がなかなか治まらないから、アッシジへ行こうかと思う。太田さんも行くか!?」とお誘いがあった。
 小林司祭もわたしと同じクリスチャン・ネーム「フランシス」だった。そのフランシスの足跡を巡礼することへの憧れはわたし自身の内にもあった。二人の間では極自然のうちにアッシジ行きの合意ができた。そうと決まれば大韓航空でと、小林司祭が積極的に旅行プランを建てた。そして、二〇〇四(平成十六)年五月(一〇日間)、イタリア・アッシジへの巡礼旅行となった。
 大韓航空で福岡空港から、ソウル空港で乗り継ぎ、そこからローマ空港へひとっ飛び(十一時間)。ローマでは二泊して、ローマ市内観光、凱旋門、コロッセオ、バチカン、そして、およそ七五〇年前にフランシスがローマ法王に謁見したという、ラテラノ大聖堂等を訪ねた。そのラテラノ大聖堂はバチカンの壮大な大聖堂のように大きくはなかったが清楚な中にも歴史の重厚さをほうふつさせる荘厳さを感じさせた。
 一日だけのローマ観光を終えてから、イタリアの国鉄でアッシジに向かった。プラットホームは日本とは異なり、二〇センチほどしかないホームに立つと列車の大きな車輪が目前に見えた。その列車に乗り込む時にはホームから三段も上らないと車内に入れない。足の不自由な肢体障害者に対する配慮の無さに驚いた。しかし、後にヨーロッパの国鉄はほとんど同じ状況だと聞かされた。小林司祭が先に乗り込み、わたしを引き上げてくれた。
 南北に長いイタリア半島を北上し、半島のほぼ中間に位置する城壁に囲まれた古い町アッシジの郊外にあるアッシジ駅に着いた。駅から二キロほど先のスバシオ山の中腹にホテルが在った。ホテルのベランダから今上って来た駅の方を眺望すると静かな田園風景が広がっていて心癒される思いがした。そのホテルを出て数歩歩けばサン・フランシスコ大聖堂前広場へ入る事ができた。そこで五泊した。
 ホテルに着いて早速、小林司祭は、鹿児島県出身でこのサン・フランシスコ修道院で修行しているという邦人の滝神父さんに連絡を取りお会いすることになった。聖堂入り口の一室に通されお会いした。滝神父さんにアッシジへ来た目的を伝え、観光マップを広げて、巡礼先への道のりなど尋ねた。小林司祭が指でマップをなぞりながら「ここからここまでの距離は近いですね?………」と尋ねると、「マップは平らですが、実際には坂道や石畳の道には凸凹も多いので、しかも足が不自由だと思ったより時間がかかりますよ…」と、滝神父がアドバイスして下さった。この「マップは平らですが…」と言った滝神父さんの何気ない一言に誘発されて三人が大笑いした。
 滝神父さんに案内されて、サン・フランシスコ大聖堂に入って見ているうちに、偶然にも九州の西南学院大学の青野教授に出会った。同じ九州に居てもなかなか会う機会がないのに………、その偶然の出会いに教授と小林司祭が驚き合っていた。そして、教授ご夫妻も加わって、サン・フランシスコ大聖堂内を案内していただいた。大聖堂の内部は薄暗くわたしの視力では細部までは把握できなかった。しかし、天井から周囲の壁面まで一杯に描かれた聖画のひとつひとつに深い意味合いが込められていて見る者に感動を起こさずにはおかない圧巻絵巻の舞台だった。
 その夜は、暇なのでベットの上でノートパソコンを開けてインターネットを接続しようとしたがうまく繋がらなかった。そこで、小林司祭が持って来ていたDVD「ブラザーサン、シスタームーン」を観賞した。それは明日からの巡礼~フランシスの足跡を辿る~下調べを兼ねていた。
 東西に細長く城壁に囲まれた町(旧市街地)に出て、市街地を縦断しながら、フランシスが生まれ育ったという家をはじめ、この世の名誉や地位や財産を捨てて裸になったという司教館前や、市庁舎前広場とか、フランシスの働きに共感して献身し、後のローマカトリックのクララ女子修道院の創始者となったキアラの遺体が今も保存されている、サンタ・クララ教会を訪ねた。わたしの視力では、地下室のカラスケースに収められている遺体を確認する程度だったが感動した。約七五〇年前の遺体がこうして保存されていることへの驚きでもあった。因みに、サン・フランシスコの遺体は、骨になって、サン・フランシスコ大聖堂の地下室に保存されていると言う。わたしは見に行かなかったが、あとで小林司祭から聞いた。
 サン・フランシスコ大聖堂とは正反対の方角にヌオーヴァ門があった。裸一貫になったフランシスがその城壁のある町から出て行った城壁の門だった。その門を通って、フランシスが再建したサン・ダミアノ教会を訪ねた。この教会は、キアラが初期のクララ女子修道会の活動拠点となった。
ホテルを出てここまでは急坂な坂道が多くあり難儀した。そこから、田園地帯が広がっていた。丁度、穂が出た麦畑が続いていた。畦道には赤いポピーが咲き誇っていた。麦
畑の中にも点々と咲いていた。のどかな初夏の風景を満喫しながら歩いた。また、麦畑やぶどう畑がパッチワークの布を広げたような田園風景を隔てて城山の中腹に在る旧市街地を眺望しながら、田園地帯を随分歩いて、リボトルトの教会にたどり着いた。


assisi09.jpg そのリボトルトの教会の近くにハンセン病院が在ったといわれている。また、フランシスが数人の同志と共同生活していた拠点でもあった。石を積んで造った八畳敷ぐらいの馬小屋と呼ばれている小屋がリボトルトの教会の中に保存されていた。その教会堂前には、フランシスがハンセン病者の体を洗っている等身大の銅像が建っていた。その傍らには幅一メートルほどの小川が流れていた。この世から顧み見られなくなった。人々、ことにハンセン病者の救済活動をした拠点であったと思われた。

 実は、ホテルを出て、坂道の多い石畳の道を歩き、平らな田園とは言え長距離をずーっと歩き続けたので大変疲れた。ここからは帰り道、タクシーを利用することにした。そこでタクシーを呼んだ。ところが、此処まで歩いて来る途中で、乗りませんかと誘われた時、いや、歩いて行きますからと断った時のタクシーだった。タクシーの運転手の方から"さっきお会いしましたね…"とばかりに笑っていた。わたしたちもばつが悪く笑ってしまった。
 そこからはそのタクシーで、今ひとつ元ハンセン病院だった所に教会があるというのでそこを訪ねた。サンタ・マッダレーナ教会である。そこは比較的街に近いところにあったが、この建物はハンセン病院だったという、看板がかかっていて外から眺めることしか出来なかった。そこから、ホテルへ帰った。
 ホテルでの夕食には、小林司祭はスパゲティ、わたしはピザ、それにワインを添えて注文した。そのホテルにはベランダの食堂が在ったので、眼下に広がる夕焼けの田園風景を眺めながらの優雅な夕食を満喫した。因みに、わたしはこのホテルでの夕食にはいつもピザにワインだった。わたしには食べ易くとても美味しかった。以来わたしはピザ党になって今も時折ピザを食べるようになった。
 二日後、山頂のお城を見たあと、フランシスが隠遁生活を送ったという山中を訪ねたり、ハンセン病院跡などを巡礼することにした。先ず市街地の中央広場まで歩いて、そこからタクシーで回ることにした。小林司祭は前日、山頂まで歩いて登ったというが、今回は足の悪いわたしに合わせて、タクシーでの巡礼となった。
 山頂に築かれたお城へは急坂だった。山頂からその中腹に広がる旧市街、そしてその裾野に広がる平野、田園地帯が朝の陽射を受けて輝いていた。その一八〇度の眺望は感動的で今も網膜に焼き付いている。その感動的な眺望をあとにして、フランシスが晩年過ごしたという山中深くに向かった。そして、洞窟へ向かう入り口でタクシーから降りて歩いた。洞窟の入り口まではほぼ平らな山道だった。その山道の途中にフランシスが小鳥と話をしていたと言う場所があった。その先の小さな岩のトンネルを抜けた所に、洞窟へ降りる階段があった。断崖絶壁に沿って階段あり、その洞窟へ降りる階段は暗くて狭くてわたしは行けないので、断崖の上で小林司祭が帰って来るのを待つことにした。わたしのようにその階段を降りられない人たちも数人一緒に待っていた。
assis23.jpg その洞窟は断崖絶壁の下にあり、そこは谷底で小さな谷川も流れて居るようだった。その谷川を向こうへ渡って少し上ると、こちら側が見えるので手を振っている人も居た。断崖絶壁の写真を撮っている人も居た。フランシスがこの世のわずらいを避けて、こんな山深い山中の断崖絶壁の下へ隠遁し、何者にも煩うことなく、祈りの生活を送ったのであろう。ここは容易に人を寄せ付けない、神聖な祈りの場で在ったに違いないと思った。
 そこからアッシジの平野に戻り、今は廃墟になっているが、ハンセン病者たちが共同生活していた、と思われるサン・マセオ病院があった。そこは石を積んで造った家だった。二、三〇人は生活できると思われる程、結構大きな家だった。その隣には礼拝堂が建っていた。その礼拝堂には人が住んでいるようだった。家の周りは伸び放題の草で覆われていた。また、荒れ放題のぶどう畑が広がっていた。また、そのぶどう畑の中には屋外礼拝したと思われる祭壇もあった。また、直径約一メール程の大きな井戸も在ったが、雑草に覆われていた。少し手入れすれば使用出来るのではと思われた。当初はフランシスがその仲間たちと共にハンセン病者たちの救済活動を行っていたのであろう。
 そのサン・マセオ病院を後にして、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会を訪ねた。その教会は平野地帯に在るアッシジの町の中に在って、その中に、ポルチュンコラと呼ばれるフランシスが死を迎えたと伝えられている小さな教会が建っていた。その教会の他にもいくつか教会があったが、フランシスが多くの人々に見守られながら。静かにこの世に別れを告げた教会だけを見てホテルに帰った。今日はタクシーだったこともあって、アッシジを一回りした感じだった。
 アッシジの旅は五泊六日間というゆとりのある旅だった。雨が降って一日中ホテルに居たこともあったが、かえってゆっくり休息する時にもなったりして、退屈などはしなかった。
 この世の名誉や財産を捨てて、ひたすらイエスに倣う者としての生涯を送ったという、憧れのフランシスの足跡をほうふつさせて余りある旅だった。アッシジでのフランシスの働きが世界に広まり、最初のフランシスコ会の総会がこのアッシジで開催された。その時、世界中から数千人の同志たちが此処アッシジに集ったという。そして、フランシスがその創始者として建てられようとした時、それを辞して山中の洞窟へ退いたと聞いた事がある。地位にもおぼれず、"イエスに倣う者"としての生涯に徹したキリスト者であったと感動するばかりである。そのめぐみと感謝の思い出、今から二年前の旅の思い出を綴る事が出来た事を感謝して終わる。
assisi10.jpg
★ホテルのベランダからサン・フランシスコ教会の西に沈む夕焼けが美しかった。

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